梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・20

5 副詞そのほかのいわゆる修飾語
a 副詞の性格について
【要約】
● (とても美しい)花だ。
 「花」の具体的なありかたを示すために他の語をつけ加えることを、修飾するという。これはみかけの説明だから、これを絶対化して、これだけで解釈するとまちがった理解におちこむ危険がある。すすんで認識構造を分析しなければならない。上の例で、「とても」は単独に使われることはなく、いつも他の語に依存して、修飾にしか使われない。この種の語をまとめて副詞とよぶのが一般的なならわしである。
(a)ずっと昔のことです。
(b)それからずっと社員ですね。
 いずれも時間的なありかたをとりあげているが、(a)は現在から出発して過去へさかのぼり、過去のある一点をとりあげており、(b)は過去のある一点から出発してそここから現在までを取り上げている。どちらも客観的な事物の時間的なありかたの表現だが「時間を遡って行くという思考上の操作があるように見られる」(時枝誠記「日本文法・口語篇)ことを注意する必要がある。《走っている自動車を時間的な経過でとらえるには、とらえる人間がやはり自動車について走っていかなければならない》。客観的な事物の時間的なありかたについての表現も、そのうしろに、話し手の時間についての観念的な運動をかくしもっている。それが表面に出ていないだけなのである。(b)で、話し手は一度「それ」としてとらえる過去の世界に観念的に移って行って、それについて「ずっと」と表現しながらまた現在の世界へもどってくる。このもどってきたことを表現するときに、
● それから(ずっと)社員でし《た》ね。
 のかたちをとる。
(c) はるばるとインドから来ました。
(d) はるかに南極へ旅立つ。
 (c)の最後の「た」もこれと同じ性格のものである。(c)と(d)は空間的な距離をとりあげている。
(e) もっと砂糖を加えよう。
(f) わずかに三軒焼けのこった。
(g) ずっとためになる。
(h) すこぶる健康なスポーツだと思う。
 (e)と(f)は量的な状態についての表現、(g)と(h)は質的な状態についての表現だが、これらはちがったものとの比較においてとらえている。「もっと」は現在の状態に比較して、「わずかに」は焼ける以前の過去の状態に比較して、「ずっと」はほかの存在に比較して、「すこぶる」は一般のものに比較しての表現である。《二つのものを比較するには、それをとらえる人間がやはり一つ一つについてとらえなければならない。》ここにも話し手の観念的な運動がかくされている。  
(i) くるくるとまわる。
(j) ひらひらとひるがえっていた。
 過去の車のまわるかたちの認識が現在の人間が活動するかたちに抽象的に比較されての「くるくると」であり、過去の花びらの風にうごくかたちの認識が、現在の帽子のリボンの動きのかたちに抽象的に比較されての「ひらひらと」だというような成立の過程に目をむける必要がある。
 副詞の第一の特徴は、きわめて抽象的な内容を持つということであり、第二の特徴は、時間的、空間的、量的、質的な、あるいは形式的なありかたについての表現だということである。第二の特徴は、名詞・動詞・形容詞などとちがって、話し手の観念的な運動をひそめているという点が重要である。
● 明日は(恐らく)晴天だろう。
● (もし)行くなら一緒に行こう。
● (断じて)おれは潔白だ。
● (ぜひ)行かせてくれ。
● (決して)忘れない。 
 これらの語を山田孝雄氏は「陳述副詞」としたが、話し手の推定、仮定、決意、強要そのものの表現であり、
「陳述副詞と云われているものは、いわば陳述が上下に分裂して表現されたもので、『無論・・だ』『決して・・ない』『恐らく・・』を一つの辞と考えるべきげあろう。」(時枝誠記・「日本文法・口語篇」)
 という説明は正しく、これらは副詞から除外するのが妥当である。
「恐らく」「もし」などは時間的に遠い未来のありかたについての気持ちである。「断じて」「ぜひ」「決して」などは、聞き手の気持ち(疑い、消極的、あやぶんでいる)を考え、それとの比較において自分の気持ちを強調し強要しているのである。
 ここから、普通の副詞とのつながりがわかってくる。
● 彼は(はるかに)中国へ旅立つが、《もし》君が行くなら一緒に行ったらどうだ。(未来)
● この仕事は(ずっと)やりにくいが、《断じて》やりとげるつもりだ。(比較)
 人間の思考は複雑で流動的である。対象の認識、話し手の位置の観念的な動き、そこに起こる感情や欲求などが、さまざまに交錯しながら流れていく。必要に応じてその部分部分が表現となり外面化される。ここにあるいは副詞があらわれ、いわゆる陳述副詞が顔を出すのである。
 現実的な世界は変化していても、それが時間的だという点では今も昔も変わりがない。空間的だという点でも変わりがない。(a)の「ずっと」は時間を一定の長さにおいて抽象してとりあげている。(b)の「ずっと」は、そのとき対象に発生してその後は不変な属性をそのままとらえている。(c)も(d)も二つの場所の距離を抽象してとりあげている。(e)の「もっと」は、現在の量から変化するにしても、変化の結果としての静止の状態において変化以前と比較してとりあげている。従って、これらすべては静詞的表現であ
り、副詞を形容詞と同じく静詞の一つに入れることができるだろう。 


【感想】
 副詞と呼ばれる語の特徴は、①きわめて抽象的な内容を持つ、②時間的、空間的、量的、質的な、あるいは形式的なありかたについての表現である、ということであり、特に②の特徴には「話し手の観念的な運動」が秘められることに注意することが重要である、ということがよくわかった。これまでは、単に「修飾語」としてしか考えてこなかったが、副詞の時間的、空間的、量的、質的、あるいは形式的なありかたの表現には、話し手の観念的な運動が秘められており、そこまで読み取らなければ理解したことにはならないということである。「くるくるとまわる」という表現の中には、話し手が過去に車が回る様子を見た経験に基づいて、車以外の物(例えば人間)にもあてはめて表現しようとする「観念の運動」を見落としてはならないということであろう。
 また「恐らく」「もし」「断じて」「ぜひ」「決して」などは、話し手の聞き手に対する気持ちが直接表面化されており、詞ではなく辞であるという時枝誠記の主張を、著者も「正しい」と肯定している点は、興味深かった。
 また、「とても」「ずっと」「もっと」「すこぶる」などは、活用のない「静詞」の一つに分類できるという説明も理解できた。ただ、「はるばると」「はるかに」「わずかに」「くるくると」「ひらひらと」もまた一語と考えてよいのだろうか、という疑問が残った。(2018.1.30)