梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・17

d 複合動詞の問題・・・正しい意味での助動詞の使用
【要約】
 動詞は、単独で使われるだけでなく、複合して使われることがある。動詞の下につけ加えて使うかたちの動詞を、これまでの教科書では助動詞とよばれる品詞の中に一括していた。(その中の性格のちがう語を区別する必要がある)
 時枝誠記氏は、使役の助動詞(す せる させる)、受身の助動詞(れる られる)、可能の助動詞(れる られる)、自発の助動詞(れる られる)、敬意の助動詞(れる られる)は認識構造の点からほかの助動詞と別個に扱うべきことを主張した。この主張は全く正当である。
(a)《「書か」せる》(■)
(b)《「書か」せ》(ます)
(c)《「書か」せる》(わ)
 「書かせます」は、動詞の「ある」の場合の「あります」と同じように、上の語とは本質的にちがうものとして区別すべきものである。敬意の助動詞をのぞくと、これらの語はすべて運動・変化を表現している。またどれも内容がきわめて抽象的で、形式動詞、抽象動詞とよばれている語によく似ている。これらの助動詞は独立して使われず、ほかの動詞につけ加えて使われているという点で、一応区別する必要がある。動詞につけ加えて使う動詞という点で、これらの語こそ実は助動詞の名にふさわしいのではないだろうか。これら以外の助動詞「ます」「まい」「よう」などに対しては、その性格から、昔使われた「動辞」の名を復活させるのがよいと思う。
 動詞に、ここでいう種類の助動詞を加えたものは、動詞表現が二重になっているから、複合動詞としての性格も持っている。この二重性を特別に意識しなければならない場合も起こってくる。
「急いで書かせる。」を、発音のときは、(a)急いで書かーせる。(b)急いでー書かせると区別することがある。
(a)《「急いで書か」せる》(■)
(b)《「急いで」書かせる》(■)
 (a)は、普通以上にはやく書くようにさせることで、ペンを持つ手そのものがはやく動かせられる。(b)は書かせることをはやくはじめるので、ペンを持つ手そのものは普通に動いている。
 複合動詞を単純動詞に変えて表現する例も少なくない。
● バスで目的地まで(行かれる)。→(行ける)。
● 電車の中でもらくに(読まれる)。→(読める)。
● 病気の手当ては充分に(行われる)。→(行える)。
 これは可能の表現である。複合動詞だと受身と混同されるので、独自の動詞表現をとるのは理由のあることである。
 敬意の表現に使われる「れる」だが、
● 先生は手本を示した。
● 先生は手本を示された。
● 先生は手本を示されました。
 というようなかたちを見ると、語を重ねるにしたがって敬意が加わるように、また「れる」と「まし」は同じ性格の語のようにも思える。しかし、
● 先生は手本をお示しになる。
● 先生は手本を示される。
 は同じような認識を表現したものとして扱われている。「お示しになる」は自発としての過程をとりあげて、その特殊なとらえかたが敬意を示すものとして用いられている。「お示しになる」は自発としての過程をとりあげて、その特殊なとらえかたが敬意を示すものとして用いられている。それで、敬意の場合の「れる」も、自発の「れる」から転じて用いられたものではないかと推定できる。自発は、当然にそうなると見ることである。対象にそれだけの能力があり資格があってこちらの干渉しえないものだと見、尊敬をはらうべき属性が存在すると考えるところに「お示しになる」の表現がうまれ、自発の助動詞から敬意の助動詞への転用が起こったと見るべきだろう。「まし」は対象の属性とは関係がない。これは聞き手に対する敬意を直接に示す表現である。
● 隊長、敵のやつが近寄って来ました。
● おい給仕、社長が来られたらお茶を入れろ。
 上は、聞き手である隊長に対しての敬意の表現であり、下は給仕に対してではなく社長が来るという属性を尊敬に値するものとしてとらえての表現である。
 独立して使われる動詞の中にも、属性を尊敬に値するものとしてとらえるものがある。その下に敬意の助動詞をつけ加えて複合動詞にすると、敬意を強化した表現になる。
● 食事をいただく。
● 食事をいただかれる。
● 先生はお食事をいただかれました。
 のようなかたちをとって、日本語の敬語は組み立てられていく。
 敬語法自体が古い社会のありかたに基礎をおいてうまれた望ましくない表現方法だということと、敬語法の研究が必要だということとは別の問題である。
 言語の本質論の正しいか否かは、このような特殊の表現方法に対しても一貫して適用できるかどうか、正しい解明の指針となるかどうかでテストされなければならない。敬語法が正しく解明できないような本質論はそのどこかに欠陥があるわけだし、反対に敬語法の分析で得られた本質的な構造の発見は普通の表現方法の研究に対しても指針として役立つのである。


【感想】
 一般に、複合動詞とは「走り出す」(動詞+動詞)、「勉強する」(名詞+動詞)、「近づく」(形容詞語幹+動詞)のような語をいうが、著者はそれに加えて、動詞+使役・受身・可能・自発・敬意の助動詞(す、せる、させる、れる、られる)も「動詞表現が二重になっているから、複合動詞としての性格も持っている」と説明している。
 なるほど、「書かせる」は、書くことをさせる、「行かれる」は、行くことができる、「読まれる」は読むことができる、「行われる」は、行うことができるという意味だから、「勉強する」という複合動詞と同じように考えられる。
 著者がいう「複合動詞の問題」とは、畢竟、使役・受身・可能・自発・敬意の助動詞を他の助動詞と区別するべきだということであり、むしろ助動詞の問題ではないだろうかと思った。
 また、著者は(食事を)「いただく」という独立した動詞に「いただかれる」「いただかれました」のように敬意の助動詞をつけて複合動詞にすると敬意を強化した表現になると説明している。たしかに、食事を提供された人が、提供した人に対して敬意をあらわし「いただく」という語を使い、話し手が食事を提供された人に対して敬意をあらわして「いただかれる」といい、さらに話し手が聞き手に対して敬意をあらわして「いただかれました」という四者の上下関係(尊卑の関係)が示されるということがよくわかった。もし、「召し上がる」という語を使えば、単に話し手が素材としての人物に敬意をあらわしているに過ぎないということになるのだろう。(2018.1.25)