梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・18

4 形容動詞とよばれるものの正体
a 歴史的な検討の必要
【要約】
 国語の教科書や参考書では、その大部分が「形容動詞」といわれるものをとりあげて説明している。
《活用表》
● 静かだ(基本の形) 静か(語幹) だろ(未然形) だっ・で・に(連用形) だ(終止形) な(連体形) なら(仮定形) ○(命令形)
 形容詞と形容動詞とは、意味からいえば似ていても、品詞がちがうことになっている。同じ語でありながら、
● たいへん静かだ。(形容動詞の終止形) あれは外国人だ。(助動詞)
● 大きな家がある。(連体詞) きれいな絵です、(形容動詞の連体形)
 と区別しなければならない。
 現在のかたちにまとめたのは橋本進吉氏だが、時枝誠記氏や水谷静夫氏は、この品詞を立てることを拒否している。
 活用表を見せられると、独自の活用を持つようにも思える。一面からは形容詞的であり、一面からは動詞的な使いかたをする特別な品詞として区別すべきだという主張ももっともなような気がする。ところが、現実をよくしらべてみると、活用のちがいとして簡単に片づけられない異様な使いかたが次から次へと見つかる。まず、
だっ
● 暖か だろ で だ  な  なら
 に
く い けれ   
 のように、一つの語幹が形容動詞的にも、形容詞的にも活用する例がある。同じ語幹にまったく別の二つの活用があるとは、ずいぶん奇妙ではないか。形容動詞説では、「静かだ」を一語として説明する。すると「暖かだ」も当然一語でなければならない。「暖かだ」は形容動詞で「暖かい」は形容詞だとすると、両者に共通する語幹「暖か」はいったい何なのだろうか。奇妙なことはそればかりではない。
 黒く 黒い 黒けれ 丸く 丸い 丸けれ
これはたしかに形容詞だが、接頭詞をつけると、
● まっ黒 く  い けれ
(まん丸) だっ 
      だろ で だ  な  なら

 と、二つの活用をもつものに変わってしまう。また、多くの形容詞が同じようなやりかたで、
● 切りかたが分厚だ。(厚く 厚い 厚けれ)
● 水がなまぬるだ。(ぬるく ぬるい、ぬるけれ)
 というように、形容動詞の活用をとるものに変わってしまう。なぜこんなことが起こるのだろうか。
 水谷静夫氏は、次のように説明している。きわめて重要な指摘である。
 「形容詞の発達は、動詞に比べ十分とはいえなかった。第一に活用が整わず、陳述の容相に応じて行われる語形変化の出来ない場合がある。第二に、語彙が乏しい上、入り組んだ概念を専ら指す語がない。
 ところで、国語を操って生活する者が彼らの表現内容上、既に習得済みの形容詞とその 働きとだけでは事足りなくなった時、新たに形容詞を創り出す。また用法を拡げることが出来なければ、国語生活の必要は必ず代用の表現法を求めるに至るだろう」(水谷静夫・「形容動詞弁」国語と国文学・昭和26年5月号)
 そこへ漢文が入ってきた。日本人は輸入された書物にある外国語の表現を、何と読むか、日本語にどうとり入れるかの問題にぶつかった。漢語には「綺麗」「堅固」「従順」「残酷」「誠実」「厳重」など、事物のこみいった属性を端的に表現するものがたくさんある。「うつくしい」「かたい」「おとなしい」「むごい」など形容詞の中で漢語に近い内容を表現するものもあるが、形容詞では表現できないものもすくなくない。それで、形容詞の不足を補うものとして、これらの漢語を音でよんで日本語にとりいれることになった。
 これらは静止し固定し変わらない属性において対象をとらえているから、運動し発展し変化するものとしてとらえる場合の表現方法を工夫すると、形容詞に動詞を加えた、
● 美しくーなる おとなしくーなる
 に準じて、
● 綺麗ーにーなる  従順ーにーなる
 と、「に」をはさむかたちをとり、同じように形容詞に助動詞を加えた、
● 美しくーありーき おとなしくーありーき
 に準じて、
● 綺麗ーにーありーき 従順ーにーありーき
 と表現したのは認識構造からいって当然であろう。
 混乱はここからはじまる。形容詞の場合も、漢語の場合も、混乱の原因は同じである。発音すると「くーあり」が「かり」に、「にーあり」が「なり」になってしまう。この発音のとけあいを、そのまま意味の問題にもちこむところにまちがいが起こるのである。こうして、形容詞につながっている「かり」を、山田孝雄氏は特殊の語として区別した。
 「『あり』は上に形容詞を受けてその連用形の語尾『く』と熟合して『かり』という形をなすことあり。今これを形容存在詞という。かくのごとき詞は現代の文章にも盛んに用いられる。従来の文法家は多くは之を軽視せり。余は教科書には之を形容動詞といいてはやく之を説けり」(山田孝雄「日本文法学概論」)
 一方、漢語についた「にーあり」を「なり」と発音したところで、内容が二語であることまで否定されるわけではない。見かけは一語だが、活用はこの二語のうちの助動詞「あり」の部分にあるので、「にーあり」全体が活用形をとっているのではない。にもかかわらず、「に」が間にはさまっていることを無視してしまい、漢語に直接活用がくっついているものと考えたところに、形容動詞の語幹が「なり活用」をするという説があらわれてきた。《漢語につけられたのは、それまでに使われていたままの日本語である。漢語の活用をこしらえたのではない》。
 「こうして形容詞がひとたび奪われた領域は、漢語の普及につれて竟に取り戻されることなく、今日でもいわゆる形容動詞は形容詞・副詞を代行する優勢な言葉なのである」(水谷静夫・同上)
 見かけの変化にとらわれることなく、いわゆる形容動詞と形容詞との認識構造をしらべてみると、形容動詞の正体がハッキリする。
(A)《「きれい」》(に・あり)  《「美しく》(あり)
(B)《「きれい」》(だ) 《「美しい》(■)
(C)《「きれい」》(です) 《美しい」》(です)
(D)《「きれい》(■)(ね) 《「美しい」》(■)(ね)
 特に、気をつける必要のあるのは、敬意を表現する「です」のありかたである。この語は助動詞「あり」「だ」が敬意の表現にあたってそのかたちを変えたものである。従って、(D)の場合は、どちらも助動詞の表現が省略されているもので、文の終わりに形容詞が使われる(B)の場合も表現の省略があるものとして理解しなければならない。もっとも、方言では、
● あのあまっ子えらく美しいだ。
 などとも使う。これは決して不合理な表現ではない。


【感想】
 著者の説明によれば、「形容動詞の正体」は、漢語を導入し、それを形容詞に代用したことが発端であり、もともとは二語であったものが、一語として見られているために生じた間違いであるということになる。具体的には、〈発音すると「くーあり」が「かり」に、「にーあり」が「なり」になってしまう。この発音のとけあいを、そのまま意味の問題にもちこむところにまちがいが起こるのである〉。〈一方、漢語についた「にーあり」を「なり」と発音したところで、内容が二語であることまで否定されるわけではない。見かけは一語だが、活用はこの二語のうちの助動詞「あり」の部分にあるので、「にーあり」全体が活用形をとっているのではない。にもかかわらず、「に」が間にはさまっていることを無視してしまい、漢語に直接活用がくっついているものと考えたところに、形容動詞の語幹が「なり活用」をするという説があらわれてきた。《漢語につけられたのは、それまでに使われていたままの日本語である。漢語の活用をこしらえたのではない》〉と、誤りを指摘している。なるほど、「きれいだ」と「うつくしい」の活用形を比べてみると、寸分たがわず一致することがわかる。 
 だとすれば、形容動詞は「もともと二語以上であった」と考えるべきであり、「名詞」+「助詞」+「助動詞」または「名詞」+「助動詞」という結合が形容動詞の《正体》だと考えてよいか。次節を読んで確認したいと思う。
(2018.1.28)