梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・59

 詞に関する敬語が、素材的事実の特殊な概念的把握の表現であって、話し手の敬意そのものの表現ではないということは、敬語の構成法(表現過程の形式)を考察すれば明らかになることである。その構成法を例示する。


その一 「あげる」「くださる」「いただく」
 その一は、概念の比喩的移行である。素材的事実に存在する上下尊卑の観念を、他の具象的な概念を借りて表すことである。「やる」に対する「上げる」「差し上げる」の関係を見ると、「やる」という語は、素材的事実を構成する丙丁の上下尊卑の関係を表すには不十分である。これを下から上への運動を表す「上げる」「さしあげる」に移行し、この語によって「やる」の特殊な《ありかた》を表現しようとするのである。「下さる」はその逆である。(「下さる」には、話し手との関係の規定も含まれているので、理論的には「下す」という語が考えられる)理解するものは、これらの語を通して、下から上へ(上から下へ)の概念ではなく、「進上」あるいは「恵与」の意味を理解することによって、敬語として意識されるのである。「いただく」が「賜る」意味となる場合にも同様な過程が見られる。このような過程的構造によって、敬語が事実の総合的関係の認識に基づく、事実の特殊な概念的把握の表現であることが明らかになる。
 「あげる」「くださる」「いただく」はその代表的なものだが、これらの語はさらに抽象化され、複合語として次のような敬語的系列を作る。
● 「あげる」 見てあげる 書いてあげる 読んであげる 遊んであげる
● 「くださる」 見てくださる 書いてくださる 読んでくださる 遊んでくださる
● 「いただく」 見ていただく 書いていただく 読んでいただく 遊んでいただく
 ただし上の表現には、話し手との関係の規定は、「くださる」を除いて全然考慮されていない。もしそれを加えるなら、「見てあげ(られる)」「書いて(お)あげ(なさる)」
「読んでいただか(れる)」「遊んで(お)いただき(になる)」等の表現を必要とする。それでもまだ、これらの表現には聞き手との表現は全く省略されており、敬語はまさに三段の構えにおいて成立するものだといえる。聞き手との関係は、「辞に現れた敬語法」に属するので、後述する。
その二 「給ふる」「たてまつる」
 古語の中にある「給ふる」「たてまつる」の二語について考える。
「給ふる」は「給ふ」(四段活用)と比較するのが便宜である。「給ふ」には、二つの種類があり、一は素材と話し手との関係を規定し、「行き給ふ」「問はせ給ふ」等と用いられ、二は「賜ふ」の意味を表し、素材間において「上から下へやる」という意味を表す。 「給ふる」は、二の「賜ふ」に対応するものであり、素材と話し手との関係を表すものではない。「給ふ」と「給ふる」の違いは、「上から下へやる」という意味を表す時、上位者にとっては「給ふ」(賜ふ)であり、下位者にとっては「給ふる」となる。「給ふる」は、下の者が上の者より蒙る概念を表す。これは全く素材的関係であって、尊敬とか謙譲とかいわれるべきものではない。
 「給ふる」とは逆の方向(上向関係)を持つ概念に「たてまつる」がある。独立動詞としては「献ずる」という意味だが、他の動詞と結合して「下から上への奉仕」を意味する。● 御文を奉る(献上)
● 賀し奉る(奉仕) 待ち奉る(奉仕)
 「賜ふ」と「給ふる」がともに下向関係の概念を表しつつ、重点の相違によって二語に分かれるように「奉る」についても同様な相違が認められる。下位者に重点を置けば「献ずる」「奉仕する」の意味になるが、上位者の側からいえば「献上を受納す」「奉仕を受く」という意味になる。
● やつれたる狩の御衣を奉り(「源氏物語」夕顔・御衣の奉仕を受ける者は源氏で、奉りはその述語である)
● 御装束奉りかへて、西の對に渡り給へり(「源氏物語」葵・御装束の奉仕を受ける者は源氏)
● 女御殿、對の上は一つに奉りたり(「源氏物語」若紫下・車の奉仕を受ける者は女御殿對の上)
 上の例は、奉仕者の側から見て「御衣をお着せ申す」「車に乗せ参らす」と解釈する必要はなく、奉仕を受ける側に重点を置き、これを主語として「召し給ふ」「乗らせ給ふ」の意味と解釈する方がよい。
 「奉る」は、一般に敬称の動詞とされているが、奉仕する者と奉仕を受ける者とを同時に包含した事実の表現であるという方が適切である。
 「奉る」と同類のものに「参る」がある。
● 御菓物ばかり参れり(「源氏物語」箒木・奉仕者は紀守)
● 客人にも参り給ひて(「源氏物語」末摘花・奉仕者は源氏)
 このように、奉仕者を主語として、奉仕する意味に用いられるが、奉仕を受ける者を主語として、その述語としても用いられる。
● 御湯参り、物などをも聞し召せ(「源氏物語」柏木・奉仕を受ける者は女三宮)
● おほとなぶら近く参りて、夜ふくるまでなん読ませ給ひける(「枕草子」・奉仕を受ける者は帝)
 上は、奉仕されて御湯を召し、また奉仕によって燈火を点される意味であり、「奉る」の対応と全く同様である。
その三 いわゆる敬語の補助動詞について
 この問題は、動詞、助動詞、接尾語の性質上の相違にも触れてくることであり、また敬語の本質の理解にも関係することである。
 国語の品詞分類に、語が独立して用いられるか否かということが、重要な基準と考えられ、補助動詞という範疇もこの見地から立てられた一品詞であろうと思われる。
 私は、「補助動詞」という見解について、次のように考えている。
 第一に、国語はその文の構造上から、また語の組み立ての上から、語を独立・非独立によって分類することは妥当ではない。たとえ動詞が独立せず「散り(あへぬ)」「春(めく)」の「あへ」「めく」のようになっても、それはあくまで動詞であって、助動詞でもまた助動詞的でもない。それは「方法」を意味する「かた」という語が独立しなくなって「やり(かた)」「し(かた)」等と用いられても、名詞であって助詞ではないことと同じである。これらの独立を失った語を他と区別する必要があるなら、接尾語という名称を使えばよい。助動詞はそれらの語とは性質も用法も異なるのである。
 第二に、いわゆる補助動詞が、独立的用法を失うと同時に、具体的意味を失い単に敬意のみを表すようになると考えることはできない。「書いていただく」の「いただく」の意味は、この語が独立して用いられる時とは異なるが、これを「書いてあげる」の「あげる」と比較すれば、これらの語が敬意だけでなくある概念を表出していることがわかるのである。「給ふ」と「奉る」の非独立的用法を見ても、明らかに異なった概念の表出である。助動詞は非独立という点においては同様でも、表出するものは客体的概念ではなく、主体的直接的観念である。
 独立しないという形式的な理由によって助動詞的なものと考えられている敬語の補助動詞を、その本質的機能に従って本来の動詞に還元し、これを合成語の一要素と考え、その意味を明らかにすることによって、はじめて敬語本来の面目である素材の特殊な概念把握の表現の事実を理解できるのである。敬語なるがゆえに敬意の表現を担う語でなければならないと考えるのは、敬語に対する誤った先入観である。
 敬語は、事実の総合的把握とその表現であり、敬語の構成法は如実にそのような概念的把握の過程を示しているのである。
【感想】
 ここで著者は、詞に関する敬語が、話し手の敬意そのものの表現ではないということを、敬語の構成法(表現過程の形式)を考察することで明らかにしようとしている。
 「あげる」「くださる」「いただく」は、いずれも素材間(登場人物相互)の上下尊卑の関係を、話し手がどのように把握しているかを表す語である。「あげる」は下位から上位へ、「下さる」(下す)は上位から下位へ、「いただく」は下位から上位へという関係に基づいて使われる。
 また、与えるという意味の「給ふ」と「給ふる」は表裏の関係にあり、上位から下位に物を与えれば「給ふ」となり、その行為(事実)を下位からいえば「給ふる」になるということである。それは「全く素材的関係であって、話し手の尊敬とか謙譲とかいわれるべきものではない」と断じている点が、興味深かった。
 「奉る」は下位から上位に「奉仕する」という意味に使われるが、上位者が下位者に「奉仕を受ける」場合でも、「奉る」という語が使われている「源氏物語」の文例が示されていて、たいそうおもしろかった。
 また著者は、「下さる」「なさる」「遊ばす」「になる」等の独立して用いられない敬語を「補助動詞」とする考えを批判して、それらは「あくまで動詞であって、助動詞でも助動詞的でもない」、それらを「他と区別する必要があるならば、接尾語の名称を用いればよろしい」と述べている。助動詞は、主体的直接的観念を表す「辞」であり、それを客体的概念を表す「詞」と混同することは絶対に許されないという、強い決意が感じられた。 著者は他で「敬語は正に三段の構えにおいて成立する」と述べている。その三段とは、話し手甲と聞き手乙、話し手甲と素材の丙と丁、さらに素材間の丙と丁、のことであり、その考えはたいへんわかりやすく、心底から納得できた。
 江戸時代の落語に、長屋の住人が武家屋敷に趣き、主人と対話しなければならい羽目になり大家に相談したところ、「何でもいいから、初めに《お》をつけ、終わりに《奉ります》をつければいいんだ」といわれる場面を思い出し、なるほど敬語とは、敬意より、ともかくも相互の上下関係を損なわないようにする手段であったか、と感じ入ってしまった。(2017.12.7)