梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

童話・「イルカの風船」

 ボクはヨーゴガッコウの小学部・六年生です。まだ、文字がうまく書けません。お話もじょうずにできません。でもこの童話を作りました。ボクには、ボクの代わりに文字を書いたり、お話をしてくれる人がいます。だから今、このお話を書くことができるのです。みなさんは「誰が?」と思うかもしれません。その答は簡単です。ボクの中にはもう一人のボクがいるのです。もう一人のボクは、いつもボクを助けてくれます。そのおかげで、ボクは生きて行くことができるのだと思います。
 六年生の楽しみは、何といっても修学旅行です。電車に乗って、隣の県にある水族館を見学し、近くのホテルに一泊することになりました。先生たちは前もって、駅、電車、水族館、ホテルの様子を、ビデオで見せてくれました。初めて行く所なので、ボクたちが心配しないようにするためです。出発する前の日には、持ち物検査があります。洗面道具、着替えの洋服、下着、予定を書いた「しおり」、飲み薬などをリックサックに詰め、水筒を肩にかけて登校しました。先生たちは一人一人の荷物を確認して、その日を迎えました。
 いよいよ出発です。広い水族館にはたくさんの魚や動物たちがいました。可愛いアザラシ、ペンギンは陸ではヨチヨチ歩きなのに、水の中ではすいすいと泳ぎ回ります。ラッコはおなかの上で貝を割ることができます。ボクはアザラシとにらめっこをして遊びました。それから、イルカの曲芸が始まりました。イルカは海のような池の中で、ゴムボートを引っ張ったり、背中に人を乗せて運んだり、跳び上がって輪の中をくぐったり・・・、ボクは本当にびっくりしてしまいました。すごいなあ、と思いました。その様子をお父さんやお母さん、そしてまだヨチヨチ歩きの妹にも見せてあげたいと思いました。
 やがてお昼になり、みんなでお弁当を食べました。先生が「おもしろかったねえ、何が一番面白かった?」とたずねました。でもボクは答えられませんでした。「センセーは、イルカショーだった。四頭も一緒に跳び上がるなんてスゴイ!」と言いました。先生もボクと同じだったんだ、と思いました。
 その後、公園に行き、アスレチックで遊びました。ブランコやすべり台、トランポリンもありました。ボクはイルカを思い出して、トランポリンで何度も何度も跳び上がりました。からだが空に舞い上がるようで、イルカもこんな気持ちなのかなあ、と思いました。 夕方になったので、ボクたちはホテルに向かいました。ロビーの売店では、水族館のおみやげがたくさん並んでいました。先生が「お家の人たちにおみやげを買いましょう」と言いました。みんなは、おせんべいやチョコレートなどのお菓子、ペンダント、キーホルダーなどの記念品を買いました。ボクはどうしても妹にイルカのことを知らせたくて、柱に吊されているイルカの風船を買いました。それを手にとって振り回しました。妹はどんなに喜ぶことでしょう。その様子を見ていた、引率責任者のキョートー先生が笑いました。「六年生にもなったのに・・・」という気持ちがボクに伝わりました。ボクは心の中で「チクショー」と思いました。その夜はくやしくて、あまりよく眠れませんでした。
 翌朝になりました。今日は家に帰る日です。大きな駅から電車に乗ります。出発時刻まで三十分ありました。先生は「トイレに行きたい人は手を上げて!」と言いました。みんな手を上げたので、付き添う先生の数がたりません。ボクの付き添いはキョートー先生になりました。ボクはリュックを背負い、イルカの風船を持って、トイレとは反対にある駅ビルの方に歩き出しました。キョートー先生は黙って付いてきます。「チャンスだ!」とボクは思いました。駅ビルの玄関から入って、エスカレーターの方までどんどん歩いて行きました。それに乗ろうとすると、さすがにキョートー先生はボクを抱き止めました。「どこへ行こうとしているんだい?トイレはあっちだよ」。ボクはキョートー先生の腕を振りほどいて、その場に寝転び「死んだふり」をしました。キョートー先生は、その様子を黙って見ています。たちまち、人だかりができました。「どうしたの?」とボクの顔をのぞき込む人もいます。そして「何をしてるの!」とキョートー先生をにらむのです。キョートー先生は「すみません。何でもないんです。心配をおかけしました」と言って、みんなに謝りました。ボクは心の中で笑いました。昨日の「お返し」ができたからです。
 帰りの電車の中でも、ボクはイルカの風船を振り回しました。駅に着くとお母さんと妹が迎えに来ていました。ボクは真っ先にその風船を妹に渡しました。妹はニッコリ笑って、その風船を振り回しました。お母さんも笑っていました。
(2017.5.31)