梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・1

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)
《序》
【要約】
・国語研究の基礎をなす言語の本質観と、それに基づく国語学の体系的組織について述べようと思う。
・言語過程説というのは、言語の本質を心的過程と見る言語本質観の理論的構成であって、構成主義的言語本質観あるいは言語実体観に対立するものであり、言語を、もっぱら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするものである。
・言語の本質は古来の謎であって、自然科学の勃興は、言語をそれ自身成長し死滅する有機体のごときものとして教え、社会学的見地は、言語を人間によって制作せられた一の文化財として説くのであって、人々は比喩的説明を以て、言語をそのように観ることに慣らされて来た。しかし如上の言語観は、必ずしも言語の諸現象を普く説明しつくすという訳にはゆかない。言語に対する具体的な考察は、たえず右のごとき言語本質観に対する反省とと批判とを求めて止まないのである。
・言語過程説は、わが旧き国語研究史の現れた言語観と、私の実証的研究に基づく言語理論の上に成立し、国語の科学的研究の基礎観念として仮説されたものであって、いわば言語の本質が何であるかの謎に対する私の解答である。
・言語の本質が何であるかの問題は、国語研究の出発点であると同時に、到達点でもある。・言語の本質の研究は、言語学ないし言語哲学の課題であって、国語学は言語学の特殊研究部門として、国語の特殊相の実体的研究に従事すればよいという議論は、未だ国語学と言語学との真の関係を明らかにしたものではない。言語学が、個別的言語を外にした一般的言語(そのようなものは実は存在しないのであるが)を、研究するものであるとは考えられないと同時に、国語学はそれ自体言語の本質を明める言語の一般理論の学にまで高められねばならないのである。国語学は言語学の一分業部門ではない。国語学の対象とする個々の言語は、言語の一分肢でもなく、一部分でもなく、それだけで言語としての完全な一全体をなすからである。花弁が植物の一部分であり、手足が人体の一部分であるのとは異なるものである。国語の特殊相は、国語自身のもつ言語的本質の現れであって、言語の本質に対する顧慮なくして、この特殊相を明らかにすることはできないのである。
・どこまでが国語学の領域であり、どこからが言語学の領域であるという風には考え得られないのであって、国語学はすなわち日本語の言語学であるといわなければならないのである。
・今日国語学の基礎とされている言語観は、その成立に二の契機を持っている。一は西洋言語学説の流れであり、他は旧い国語研究の伝統である。この両者の国語学に対する関係は、学問的に厳密に規定されなければならないのであるが、わけても国語を対象として、国語の特質を考え、言語の本質を把握しようとした旧き国語教育の伝統は、国語によって言語の本質を考えようとする国語学徒にとっては、最も重要な足場であり、手がかりでなければならない。かつて私の行った国語学史の研究は、幸いにも私に単なる抽象的な言語理論についてでなく、国語の具体的事実に即してこれをいかに考えるべきかの態度と方法を示してくれた。次に私は国語学史に現れた言語研究の特殊な態度および方法と、その言語本質観を、西洋言語学観の理論に比較しつつ、これをその必然の方向に展開さすことを企図した。そして私は、言語の本質を主体的な表現過程の一の形式であるとする考えに到達したのである。言語を表現過程の一形式であるとする言語本質観の理論を、言語過程説と名づけるならば、言語過程説は、言語を音声と意味の結合であるとする構成主義的言語観あるいは言語を主体と離れた客体的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声あるいは文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。
・今この言語過程説を体系づけるために、全編を総論と各論の二篇に分かち、総論においては、言語過程説を成立せしめるための言語に対する根本的な観察の態度方法を明らかにし、一方現今の国語学界に多大の影響を与えつつあるソシュールおよびその流派の言語学説に対比し、他方それを国語学史上の学説によって根拠づけようとした。各論においては、従来の構成主義的言語学の諸部門が、言語過程説に従って、いかに根本的に改められなければならないかを明らかにするために、具体的な国語現象に直面しつつ、これを新しい体系に組織することを試みた。
・もちろん、思索や組織において未熟、不備な点もあり、国語の歴史的研究および方言的研究は除外したので、国語学の体系の全面的な建設にまでは至らなかったが、従来の断片的な研究に一応の整理を加えてこれを世に問うことにしたのである。


【感想】
 ここでは、著者が本書を刊行するにいたった経緯、とりわけ基本的な考え方がわかりやすく説明されている。その要点は二つあり、一は「言語の本質が何であるかの問題は、国語研究の出発点であると同時に、到達点でもある」「国語学はすなわち日本語の言語学であるといわなければならないのである」という考え方であり、日本語を究めることにより「言語とは何か」という本質に迫ろうとする姿勢・態度である。二は、「言語過程説は、言語を音声と意味の結合であるとする構成主義的言語観あるいは言語を主体と離れた客体的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声あるいは文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである」とあるように、西洋言語学説(構成主義的言語観、言語実体観)の流れに、一石を投じようとしている点である。
 私は学生時代、著者の講義を受講し、教職時代には著者の学説を大いに参考にしたおぼえがあるので、そうした思い出をたどりながら、本書をていねいに精読したい。  
(2017.8.26)