梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

市川猿之助の《問題》

 心中を図り、両親を死なせたとして「自殺幇助罪」で起訴された市川猿之助が保釈され、報道陣の前に姿を現した。彼らは、その容貌を見て「眼差しに精彩がない」だの「髪の毛が伸びている」だの、「無言のまま一礼」などと、凡庸な寸評を加えているが、そんなことは「当たり前」の話である。保釈されたからといって、晴れ晴れと手を振って「皆さん、喜んで下さい」などと言えるわけがないではないか。識者もまた「本人も認めているのだから有罪になるだろうが、実刑はないだろう」などと、したり顔で解説している。
 だが、そもそも市川猿之助の《問題》(看過できない解決すべきこと)とは何だったのか。一は、彼自身の言動である。出版社から指摘されるような不始末を繰り返していたことである。そのために被害を被った人たちが存在する。だから、彼はそのことを認め、関係者に謝罪しなければならない。そして、以後の言動を改めることが要求される。二は、
にもかかわらず、彼はそのことを怠り、ただ単に「生まれ変わろう」として「死」への道を選んだことである。彼は「死ぬ」のではなく《生きて(生き続けて》生まれ変わらなければならなかった。問題の本質と正面から向き合い、自分自身を変えなければならなかったのである。三は、自分のしでかした不始末を解決するために、両親を頼ったことである。両親は「死んで生まれ変わろう」と提案したかもしれない。そこには「生き恥をさらすくらいなら死んだ方がましだ」といった、昔風の価値観しかなかったのだろう。そして、猿之助はそれに従った。四に、だがしかし、彼自身は《偶然にも》死ぬことができなかった。自分だけが生き残ってしまったのである。さればこそ、彼はその責任を問われてしまうことになる。もし、成就していれば「こんなことにはならなかったのに・・・」といった悔恨があることは、察するにあまりある 、
 マスコミや識者が、今後も市川猿之助の《問題》に触れようとするなら、猿之助自身が①まず、自分の言動で被害にあった人たちに、謝罪すること、②そして今後の言動を改めること、③起訴されている罪を認め償うことが、スムーズにできるような支援をすべきではないか。興味本位に「再び自殺するかもしれない」「復帰は無理」などと「当たり前」のことを吹聴しまくるのではなく、彼の今後に「寄り添って」《これからどう生きていけばいいか》という指針を示したところで、罰は当たるまい。これを機会に視聴率稼ぎの番組や、発行部数稼ぎの情報誌が《根絶》されることを、願うばかりである。
(2023.8.2)