梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

脱テレビ宣言・検証・《視聴率》

   十月二十五日の朝刊やテレビの報道番組等では,「日テレ社員,視聴率操作」のニュースでもちきりだった。日本テレビの番組プロデューサーが,ビデオリサーチ社の調査対象所帯に,自分が担当する番組を見るよう頼み,承諾した四所帯に現金や商品券を郵送したという。日本テレビの社長は「正当な視聴率競争をしている制作者への卑劣な裏切りであり,ぼうとく。激しい怒りと深い悲しみを感じるが,不心得者を出した社員の責任は逃れられるものではなく,責任を痛感している」と語った。
   私は,かねてからコマーシャルをはじめテレビ番組の俗悪さに辟易としていたが,なるほど業界のトップに立つ社長が,この程度の見識しか持ち合わせていないとすれば,「さもありなん」と現状の文化的な荒廃を納得できたのである。社長等は,記者会見で視聴者,スポンサー各位,放送業界すべての関係者に「おわび」したというが,視聴者の一人としては「笑止千万」な話であり,謝ってもらいたいことは他にもあるのである。
まず,視聴率という数字の無意味さを認識する必要があるだろう。報道によれば,関東地区の対象所帯数が600だという。実際の所帯数がどれくらいかを明記しなければ,その数字が統計的に有意であるかどうかは判断できない。常識で考えても,わずか四所帯がその番組を見たことによって上昇する視聴率など全くの「まやかし」に他ならないではないか。
   次に,テレビ業界は,そのような「虚妄な数値」にもとづいて競争すること自体に「激しい怒りと深い悲しみを感じる」必要があるだろう。社長は「正当な視聴率競争」だと断じているが,それは単なる利潤追求の競争に過ぎず,「面白ければ何でもあり」とする俗悪番組を蔓延させる結果になるだけである。テレビ業界は「社会の木鐸」として報道の自由,表現の自由を守り,文化の向上に寄与するという「使命」を捨て,実業界の広告塔になりさがる道を選んだのだろうか。                      
   視聴者は,単に視聴率の高い番組ではなく,混迷する社会に光明を灯し,私たちの社会生活に豊か感動を与えてくれる良質な番組を求めているのである。その結果を競い合う切磋琢磨こそが「正当な競争」であり,良質な番組を提供し続けるスポンサーだけが勝ち残れるような社会を求めているのである。
「視聴率操作」は「卑劣」かもしれないが,無意味な数字に基づいて「俗悪で醜悪な」映像を垂れ流し続けるスポンサー獲得競争の方がもっと責任が重いことを「痛感」し,日本文化の低下に加担していることを「おわび」してもらいたいと,私は思う。
(2003.10.25)