梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・芝居「マリア観音」(鹿島順一劇団)

 今日は「鹿島順一劇団」の特選狂言「マリア観音」の公演日、それを観るために、はるばる(昨日は大阪途中下車、二劇場で観劇)広島までやってきた。劇場は「ゆーぽっぽ」。バス停の名前は「上小田」。たしかJR広島駅前⑧乗り場からバスが出ているはずだと、そこへ行き、路線図を見たが「上小田」という停留所名が見当たらない。駅まで戻って確かめようと観光案内所に入り「ゆーぽっぽに行きたいんですが・・・」と尋ねたが、一同、ぽかんとしている。「あの・・・、上、に小さい、田という字の停留所で降りるんですが・・・」と言うと、係員(中年男性)の表情が明るくなった。「ああ、それはですね、多分、福屋というデパートの前⑳番乗り場から出ているバスが行くと思います。そこに行って、来たバスの運転手に聞いてください」「わかりました。それで、上に小さい田という停留所は何と読めばいいのですか?」「それも運転手に聞いてください」だと。やむなく⑳乗り場に赴く。5分ほどでバスが来た。乗客は私一人、運転手に「ゆーぽっぽに行きたいんですが・・・」運転手曰く「このバスは行きません。JRか広島(ナントカ?)交通のバスなら行きますよ」「わかりました」といって降りようとすると、「ここ(⑳乗り場)から出るバスは本数が少ないので、バスの2番ホームに行った方がいいと思いますよ」、なるほど。2番ホームとは、私が初めに行った、⑧乗り場のホームではないか。再度⑧乗り場に行くと、幸いにも始発のバスが待っていた。乗り込んで運転手に聞く。「ゆーぽっぽに行きたいんですが・・・」「ゆーぽっぽ?停留所の名前がわからないとねえ」とそっけない。「あの、上に小さい田というところです」「ああ上小田ね。行きますよ」だって。なんだ、⑧乗り場でよかったんじゃないか。「ずいぶんと回り道をしたもんだ」と思ったが、「鹿島劇団」見聞のためなら納得できる。ちなみに「上小田」は「カミオダ」と読む。バスに乗車すること約30分、上小田で下車した乗客は私一人であった。以後は、道路の「案内板」を頼りに行けばいい。あった、あった。電柱に「ゆーぽっぽ」への経路を矢印で表示した看板が貼り付けられている。安心してその道を辿ったが、分かれ道に来た。右方向は「道なり」、左方向は「踏切」、でも「案内板」はない。ということは、もうすぐそこ、わざわざ案内するまでのことはない、ということだろうが、新参者(私)にはそこがわからない。結果は「踏切を渡る」が正解だったのだが、私は「道なり」を選択、住宅地の袋小路に迷い込んでしまったという次第。「ゆーぽっぽ」は、典型的な「地域のスーパー銭湯」といった風情で、そこにモダンな「舞台付き大広間」が併設されているという趣であった。従業員は「今風の若者」が多く、およそ大衆演劇のイメージとはかけ離れているところが面白い。さて「鹿島順一劇団」の5月公演、案内チラシには〈鹿島劇団 5月3日(月〉、鹿島順一座長として最後の誕生日特別公演!!」と刷り込まれていた。芝居の外題は「マリア観音」、開幕前、私の前の指定席(桟敷・座布団座椅子付き)に、親子とおぼしき「三人連れ」が座った。子どもは「幼稚園年長組?小学校低学年か?役者のように可愛らしい男児であった。一人でゲームに熱中しているのを、隣の父親(とおぼしき)男性が「ちょっかい」(悪ふざけ)を出して邪魔をする「絡み」が興味深かった。本来なら、父親が新聞を読んでいるのを子どもが妨げるという「構図」が自然だが、まさに「その反対例」が展開されているのだ。「世の中、変われば変わるものだ・・・」等と思っているうちに幕が開いた。主人公・半次郎が鹿島虎順、彼を「悪の道」に引き入れようとするスリの仲間たち(三人)が、春大吉、蛇々丸、梅乃枝健、それを取り締まり、半次郎を矯正しようとする人情肌の岡っ引き親分に花道あきら、半次郎の母に春日舞子、半次郎から煙草入れを擦られ、スリ仲間の一人から「マリア観音像」を盗まれた北町奉行・阿部豊後守(実は半次郎の父)に座長・鹿島順一という配役で、まさにゴールデン・キャスト。筋書きは割愛するが、この芝居の眼目は、(お互いの身分の違いから)離ればなれに暮らさざるを得なかった一組の男女、そしてその愛児が、「ひょうんなこと」から、再会を果たしたが、時すでに遅し、いずれもが「自死」という形で決着をつけなければならないという、「悲しいさだめ」の描出にある。この演目、私は「三河家劇団」(座長・三河家桃太郎)の舞台を見聞している。その出来映えを比べれば「いずれ菖蒲か杜若」、それぞれが劇団の「色」を十二分に発揮した代物であった、と私は思う。「三河家風」は、「艶やかな気配」、それもそのはず、半次郎が女優・三河家諒の「立ち役」、阿部豊後守と半次郎の母、二役を座長・三河家桃太郎が演じるという「離れ業」、一方の「鹿島風」は、実の父母、実子が「そのまま」役柄に符合してしまう「迫真の演技」といった按配で、「夢か現か幻か」、そのリアリティーに圧倒されてしまった。とりわけ、愛しい阿部豊後守の煙草入れを手にした時、春日舞子の表情が、子持ちの母から「芸妓の風情に」一瞬「変化する」場面は秀逸、「お見事!」という他はない。また、舌をかみ切って血にまみれる半次郎を抱き寄せ、自らも自刃する阿部豊後守の「勇姿」は、ひときわ鮮やかで「筆舌に尽くしがたい」。閉幕後の一コマ、私の前に座っていた可愛らしい男児が、びくとも動かず固まっている。必死に「悲しみ」をこらえて泣いている姿が「後ろ姿」だけでよくわかる。気づいた母親が声をかける。「怖かったの?」でも男児は無反応。父親とおぼしき男性も微笑みながら、男児の顔をのぞき込む。それを思い切り払いのける。男性に目配せする母親の目も赤い。5~6分も経ったころだろうか、男児は目を伏せたまま母親の胸に抱かれに行ったのである。その様子を見るだけで、今日の舞台がいかに素晴らしいものであったか、間違いなく男児は心底から「感動」していたのだ、と私は確信する。かくて「鹿島風」と「三河家風」の対決は「勝負なし」「引き分け」双方とも「横綱級」という結果であった。今後、「鹿島風」が「東横綱」に座るためには、「スリ三人組」の風情を変えることも必要ではないだろうか。現状では、「どこか憎めない」「間抜け風」の景色(それはそれで一つの魅力だが)で、悲劇の中に「明るさ」(笑い)を添えようとする演出・意図はよくわかる。一方、半次郎に殺されても当然、といった「極悪非道」「性悪」な風情も、大詰の愁嘆場を際立たせる伏線として不可欠ではないだろうか・・・、などと「身勝手な思い」(素人の妄想)を巡らせつつ、帰路についた次第である。
(2010.5.10)