門松は冥土の旅の一里塚
「門松は冥土の旅の一里塚(めでたくもありめでたくもなし)」と詠んだのは一休禅師と伝えられているが、前句の心境が痛いほどわかる齢となった。74回目の正月を迎え、めざす標が見当たらない。世捨て人を気取っても煩悩の波は次から次へと押し寄せる。先達の多くは鬼籍に入り、頼れる人もいないとすれば、せめて古典の数々に親しむ他はないか。「国語学原論」(時枝誠記著)からは言語の真髄を学んだ。それを次世代に伝えることが責務なのかもしれない。しかし、その術がない。時代は昭和から平成へ、その平成もまもなく終わる。言語の媒体である音声や文字も変貌しつつある。もはや「私の言葉」は伝わらない。
「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」(松尾芭蕉)・・・、たしかに!。「この道や行く人なしに秋の暮れ」(同)・・・、そしてまた「めでたさも中位なりおらが春」(小林一茶)といった世界を堂々巡りしているのである。夜が明けてきた。でも初日を拝む気力はない。(2018.1.1)
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