梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・2

第二章 言語の特徴・・その1 非言語的表現が伴っていること
1 言語の「意味」とは何か
【要約】
・言語の意味が何であるかの言語学者の説明は、大きくわけて二つになる。その一つは、話し手、書き手の側にあるものとしてその心的状態と表現である言語との関係において説明するやりかたであり、いま一つは、聞き手、読み手の側にあるものとして語られ書かれた言語とそれによってよびおこされた心的状態との関係において説明するやりかたである。前者にはS・I・ハヤカワ、後者にはマルティといった学者がいるが、意味を概念や心的状態そのものとして、すなわち一つの実体としてとらえているという点で共通している。
・しかし時枝誠記は「国語学原論」の中で、言語それ自体が意味を持ち、あるいは文章が内容を持っているという考えを否定した。
・「音声」や「文字」は言語の形式的な面をさす言葉であり、これらを、内容あるいは意味との統一でとりあげるとき「言語」と呼ぶ。言語は表現そのものであり、形式と内容との統一であり、個々の語られた音声あるいは書かれた文字以外に言語とよぶべきものは存在しない。認識を基盤にして音声が語られ文字が書かれたとき、単なる空気にすぎなかったものが音声になり、インクの一滴にすぎなかったものが文字となったとき、そこに意識的に創造されたかたちはその背後にある認識とつながっている。この創造されたかたちにむすびつきそこに固定された客観的な関係が、言語の「意味」なのである。聞き手や読者はこのかたちに接し、そこにある関係を逆にたどって、かつて背後にあった認識をとらえようとする。これが「意味をたどり」「意味をとらえ」「意味を理解する」ことである。
・概念そのものは意味ではなく、意味を形成する実体である。概念そのものの消滅は、これによって形成された意味の消滅を意味しない。意味は話し手書き手の側にあるのではなく、言語そのものに客観的に存在するのであって、音声あるいは文字の消滅とともに、すなわち表現形式の消滅とともにそこに固定された関係が消滅し意味も消滅する。


【感想】
 言語の「意味」とは何か。著者は〈認識を基盤にして音声が語られ文字が書かれたとき、単なる空気にすぎなかったものが音声になり、インクの一滴にすぎなかったものが文字となったとき、そこに意識的に創造されたかたちはその背後にある認識とつながっている。この創造されたかたちにむすびつきそこに固定された客観的な関係が、言語の「意味」なのである〉と説明している。要するに、(認識に基づいて表現された、意識的に創造された)音声や文字に結びつき、固定された《客観的な関係》が、言語の意味だということである。  
 一方、時枝誠記は「国語学原論」の「意味論」の中で〈言語の意味とは、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考える。言語は、写真が物をそのまま写すように、素材をそのまま表現するのではなく、素材に対する言、語主体の把握の仕方を表現し、それによって聞き手に素材を喚起させようとするのである〉〈言語によって意味を理解することは、言語によって喚起される事物や表象を受容することではなく、主体の、事物や表象に対する捉え方を理解することとなる〉と述べている。
 著者のいう《客観的な関係》と、時枝のいう《素材に対する言語主体の把握の仕方》とは同じことを指しているのだろうか。
 著者のいう「概念そのものは意味ではなく」と、時枝の「言語によって意味を理解することは、言語によって喚起される事物や表象を受容することすることではなく」とは、同じことを述べているように思われた。
(2017.12.31)