梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大人の童話・「月のエチュード」・《中》

  ボクはもうすっかり取り乱してしまって(なぜならオクさんが発作を起こしてしまったからです)、オクさんの胸にむやみと顔を押しつけながらただひたすらお月さまが雲にかくれるのを待ちました。オクさんが小さくふるえているのは寒さのためではなく発作のためであるのがボクにはよくわかります。オクさんのからだの中にはしあわせの巣と夢の巣一つずつあって、その二つが何かの拍子に触れ合うと発作が起こるらしいのです。しかしどうやらボクのからだの中には、しあわせの巣も夢の巣もなくその代わりにコトバの巣が一つあるようでした。オクさんの唇が再びボクに触れて、《黙ってささやいたのは》、ボクが待ちに待っていたすなわちお月さまが雲にかくれたその闇の中です。
・・・夢をみてしまったのよ。貧しい子供達の夢をみてしまったの。もうだからそれを与えることはできないわ。
ボクはとても寂しくなりました。何故と云うに、ボク達はいつになったら夢をつくってそれを貧しい子供達に与えることができるのでしょうか。いつもいつも夢は過去形の形でしかボク達の前にあらわれません。だからオクさんは夢の内容をボクに語ることができないのでした。それもあたりまえです。例えばお月さまが出ているか否かが、夢の存在条件になるようなそんなボク達の生活ではありませんか。ボクは、むしょうに寂しくなってオクさんの夢の巣をこの眼でたしかめてみたくまりました。オクさんはニンニクの匂いの寝息をたてて、もうスヤスヤ眠っています。
・・・オクさん。眠ってしまったのですか。
そんなことをつぶやきながら、ボクはオクさんのブラウスのボタンをはずしてしあわせと夢の巣をのぞいたのでした。ボクは仰天しました。闇の中でも輝いている筈の二つの巣は影も形もなく、あげくの果てにボクの眼はつぶれるような痛みを感じたからです。ボクは手さぐりでライターの火をつけました。その時、再びボクは仰天しました。ライターの火は爆発的に燃えボクの眼の痛みはたちどころにとれたからです。それにもまして、オクさんの二つの巣には数え切れない小さな虫が群がっているのです。それでボクの眼がつぶれるように痛かったのはその虫が飛び込んだこと、ライターの火が爆発的に燃えたのはそれが光りを求めて炎の飛びこんだことによるのだと諒解そました。その上オクさんのニンニクの匂いはその寝息のためではなく、この虫のためだということもわかったのでした。(つづく)
(1966.4.20)