梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

俳優・緒形拳の「死に方」

 東京新聞10月8日付け朝刊(27面)に、興味深い二つの記事が載っている。その一は「呼吸器外し 意思尊重を」、その二は「がん 家族に口止め」という見出しであった。前者の内容は、難病(ALS)患者(男性68歳)が、「現在は人生を謳歌しているが、意思疎通できなくなったら呼吸器を外して下さい」と要望したが、当該病院長は「呼吸器を外せば(殺人容疑などで)逮捕される恐れがあり、難しい。社会的な議論が必要だ」と難色を示している、という内容である。後者は、俳優・緒形拳(71歳)が肝がんで急逝したという内容で、「拳さんは病気のことを家族に固く口止めし、手術はや入院はせず食事療法などで闘病していた」とある。また、「拳さんは長く患っていた慢性肝炎が五年ほど前に肝がんに移行。食欲もあり元気だったが、四日夕方に急に体調不良を訴え病院に行くと肝臓破裂で出血しており、五日深夜、家族と親友の俳優・津川雅彦さんに見守られて死去した」という記述もあった。この二つの記事は、ともに70年近く「人生を謳歌」した男たちが、「どう死ぬか」、「どう死ねばよいか」、「どう死んだか」を検討する資料として恰好の事例だと私は思う。前者は、(おそらく)現代医学最先端の「技術」を駆使しつつ「人生を謳歌」しているが、終末の事態がどうなるのか(もしかしたら、死にたくても死ねないという「地獄の苦しみ」が待っているかもしれない)という不安から逃れることができない。一方、後者は「病気のことを家族に固く口止めし、手術や入院はせず」、「仕事にすごく前向きで、病気に打ち勝ちたいという強い思いがあった」(家族談)、言い換えれば、「人間、死ぬときは死ぬんだ。ジタバタしたって始まらない。その時が来るまでは、やりたいことをやり通すんだ」という覚悟ができていたということであろう。
 いずれ、この私にも「その時」が来る。できれば、後者のような「死に方」をしてみたい。そのためにどうすればよいか。結論は一つ、「何もしない」ことである。
(2008.10.8)