梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・劇団素描「劇団朱光」(座長・水葉朱光)

【劇団朱光】(座長・水葉朱光)〈平成20年5月公演・東京・立川大衆劇場・至誠座〉
「演劇グラフ」の案内を見ると、立川大衆劇場の来月は「休演予定」とある。私はこれまで4回そこを訪れたが、観客数が10人を超えることはなかった。とうとう小屋をたたむことになったのか、そう思うと、「もう一度、今のうちに、観ておかなくては・・・」という気持ちで、矢も盾もたまらず、立川に向かう。今日は、ゴールデンウィークの真っ最中、昼間の公演なら「大入りかも知れない」、という微かな期待を込めて入場する。なるほど、観客数はいつもより多い。しかし、「大入り」にはほど遠く、開演直前で20名、おそらく、十条(篠原演芸場)や、浅草(木馬館)は「大入り」だろう。川崎(大島劇場)や横浜(三吉演芸場)はどうだろうか、そんなことを考えながら、開演を待った。公演は「劇団朱光」(座長・水葉朱光・女優)。芝居の外題は「天竜しぶき笠」、大衆演劇の定番。親孝行で働き者だった倅(若手リーダー・舞阪にしき)が、土地に流れてきた「博奕打ち」と一緒に出て行ってしまった、その倅を待ち続ける老父と娘(男優の芸名不詳・女優・朱里光)、その許嫁(副座長・水樹新之介)。たまたま、老父が助けた「流れ者」(座長・水葉朱光)にその話をすると、流れ者、助けていただいた御礼に「必ず息子さんを探し出し連れて帰ります。一年、待ってやっておくんなさい」と約束した。一年後、流れ者がやってきた。しかし、倅の姿はなく、持ってきたのは「倅の遺髪」と「二十両」だけ。「倅さんは人手にかかって亡くなりました。手にかけたのは、あっしでござんす。出入りの喧嘩場で仇同士として出会いました。恨みっこなしの一騎打ち、時の運であっしが生き残りましたが、倅さんとわかったのはその後、この二十両を届けてくれと頼まれました。知らぬこととは言いながら、何とお詫びをしてよいやら、どうぞ恨みを晴らしておくんなさい」とドスを老父に手渡す。老父、「よくも、うちの倅を・・・!」と刀を振り上げるが、下ろせない。「では、おらが代わりに・・・」とドスを振り上げる義弟も制止する。その様子を感じ取った流れ者、もうこれまでと自刃した。 
 流れ者の手にかかって死ぬ倅、自刃して死ぬ流れ者、両者に共通する「断末魔」の「愁嘆場」が、「迫真の演技」で「お見事」。全体として「しっとり」とした「落ち着いた」景色の舞台が特長であった。
 座長の口上によれば、案の定、「立川大衆劇場は今月限りで廃業」とのこと、座長は、福生市の出身、幼い頃からこの劇場に通って育ったそうである。師匠は、若葉しげる、なるほど「しっとり」「おちついた」風情も「迫真の演技」も、「師匠ゆずり」の「たまもの」だったのだ。
 私が初めて大衆演劇を見聞したのは「千住寿劇場」、そこでも観客数が十名を超えることは少なかった。(「山口正夫劇団」は「大入り」だったが・・・)劇場というよりは、「芝居小屋」という雰囲気が強かったが、「立川大衆劇場」「川崎大島劇場」は、今もまだその雰囲気を残している。観客数が少ないということも、その雰囲気の一つなのだが、それでは経営が成り立たないことはよくわかる。また一つ、「芝居小屋」(大衆演劇を支え続けた礎・灯火)が消えようとしている。実に「侘びしい」ことである。
(2008.5.5)