梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

旅日記・国防の島「対馬」《昭和は遠くなりにけり》

2010年11月23日(火) 晴
 対馬の旅二日目は、万関橋からスタート、上島と下島を隔てる運河に架かる朱色の橋で現在は三代目とのこと、明治時代、帝国海軍が軍艦の行き来を容易にするために、山峡を削って運河を通したそうである。古来から対馬は国境の島、遠く663年、白村江の海戦に敗れた天智天皇が国の守りの最前線として築かせた日本最古の城跡・「金田城跡」も残っている。大西巨人は小説「神聖喜劇」の序章で、万葉集・防人の歌を引いていた。曰く
〈「八十島過ぎて別れか行かむ」と不意に私は口に出していた。気づいて、私は、それを心外とした。あたかも私の行く先は、大むかしの防人と同じく対馬である〉。その本歌は「百隈の道は来にしまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ」(刑部三野・4349)であろうか。いずれにせよ、彼もまた近代の防人を強いられたことに変わりはあるまい。万関橋の次は和多都美見神社。豊玉姫命と「海彦山彦」の神話で知られる彦火々出見尊を祭神とする海宮で、海に面して立つ鳥居は、大潮の満潮時には2mも海中に沈む由。しばし、「古事記」の景色を堪能して、烏帽子展望台へ。標高176mの山頂から、浅茅湾の変化に富んだ海岸美をグルリ360度眺望できるビューポイントだそうである。同行客の面々は、しきりとデジカメのシャッターを切りまくっているが、景色の鑑賞は、その風情をまず己の肉眼で、生身の脳裏に焼きつけることが肝要ではあるまいか。鳥の鳴き声、空気の匂い、日差しのぬくもり等など、機器では捉えられない風物を大切にしたい、などと思いを巡らすうちに、早くも集合時刻、厳原町の万松院へと向かう。ここは対馬藩主宋家の菩提寺で、日本三大墓地(他は金沢・前田家、萩・毛利家)の一つに数えられている。同行客は、百雁木と呼ばれる石段を登って墓所に向かったが、私は独り、誰もいない「本堂」を参拝する。天台宗の寺院と聞くが、案内アナウンスでは「徳川歴代将軍の位牌」、朝鮮国王から贈られた三ツ具足(香炉、花瓶、燭台)、建立(1615年)以来現存している正門、仁王尊が紹介されているばかりで、肝腎の「御本尊」の正体がわからない。おそらく阿弥陀如来様か・・・、などと思いつつ、ふと目にとまったのは、境内の「諫鼓」であった。「諫鼓」(かんこ)とは、いさめのつづみ。中国の伝説上の聖天子が、君主に諫言をしようとする者に打ち鳴らさせるために朝廷の門前に設けたという鼓のことである。善政の世の中では、その鼓が鳴らされることがない。その結果、鼓には苔が生して、その上で鳥が鳴くほどである。古人曰く「諫鼓鳥が鳴く」。カンコドリガナクといえば「閑古鳥が鳴く」とばかり思いこんでいたが、なるほど、そのような意味があったのか。といったところで、対馬の旅二日目は終了となった。国境の島・対馬は「国防の島」。大西巨人の小説「神聖喜劇」の主人公・東堂太郎が味わった島の風情を少しでも「見聞」できればという思いであったが、その面影は乏しく、わずかに垣間見たのは厳原町の歓楽街であったろうか。今でも、そのなまめかしいネオン灯が、「兵隊さん、寄ってらっしゃいよ」と呼び掛けているようで、東堂の仇敵、あの大前田文七が「逃亡」したのは此処だったのか。当時の「国防色」は、ハングル文字に塗り替えられ、韓国観光客の接待に追われているだろう様子が窺えて、感極まった次第である。昭和は遠くなりにけり。
(2010.11.23)