梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「見捨てられる恐怖」(齋藤学「本音のコラム」東京新聞)

 精神科医・齋藤学氏が、「見捨てられる恐怖」という一文を書いている。(東京新聞朝刊・『本音のコラム』(25面)その中で、以下の内容がたいそう興味深かった。〈人の行動を動機づけるのは恐怖だ。(略)あらゆる恐怖の源には「見捨てられる恐怖」がある。そもそも私たちの精神活動はここから始まった。乳児はある瞬間、オッパイが自分のものではないことに気づく。「他者」なるものの認知の瞬間だ。夜となく昼となく母親(乳房)を求めて泣き叫ぶ時期、知恵熱とか八カ月不安とか言われるものはこのことに関連している。以後、生涯にわたって私たちはこの恐怖にさらされ続け、それを誤魔化しながら生きる。老熟すれば克服できると言ったものではない。死を怖れるのもこのためだ。(略)〉
 人間は「恐怖」を感じて行動する。その恐怖の根源は「見捨てられる恐怖」である。だとすれば、人間は、つねに、他者(その第一人者は「母親」)から見捨てられないように「行動」する、ということになる。なるほど、人間の三大欲求の一つとされる、「社会的承認欲求」(仲間の一員として認められたい、誉められたい)は、そのような恐怖感に基づいていたのか。しかも、その恐怖は、生後八カ月頃に生じ、死ぬまで続くとは・・・。私自身、生後五カ月で母親と「死別」しているのだから、その「見捨てられる恐怖」から一度として解放されることなく、言い換えれば、「見捨てられなかった」という安堵感を一度も味わうことなく、以後、六十五年が経過したということになるのだろう。だがしかし、その安堵感を味わった人々でも、「生涯にわたって」「この恐怖にさらされ続け」「それを誤魔化しながら生き」てきたのであれば、私と比べて「五十歩百歩」、大差はない。 私たちの人生にとって要点はただ一つ、「見捨てられる恐怖をどのように誤魔化せばよいか」ということになるのだろうか。こと「死ぬこと」に関しては、誤魔化しようがない。誰も一緒に死んではくれないのだから・・・。
 いずれにせよ、人生上の諸問題、社会生活の諸問題の根源には、私たち一人一人の「見捨てられる恐怖」感が大きく広く横たわっており、様々な事件・事例の本質究明にあたっては、各当事者が、その恐怖感とどのように「対峙」していたかを明らかにすることが有効であることを、斎藤氏は示唆していると思う。私自身、心底から肝銘した次第で  ある。(2009.11.18)