梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

浪曲特選・「お吉物語」(天津ひずる)

 午後3時過ぎから、浅草木馬亭で、天津ひずるの浪曲を聴く。本日の演目はナ、ナ、ナント「お吉物語」であった。いつもなら、「○○原作、○○○○、サーッ」と言いながら語り始めるところだが、「お吉物語、実話にもとづいて語ります」とのこと、私の期待は高まった。それというのも、前回(1月)の口演「母の罪」視聴後、その感想を綴った駄文の末尾で、私は以下のように書いていたからである。〈「母の罪」は、師・天津羽衣が、戦後「女優」として第一歩を踏み出したデビュー作、それを忠実に(脚色を加えながら)踏襲しようとする、ひずるの「孝心」に脱帽する。さればこそ、次回は、「お吉物語」「明治一代女」の名作(ひずる版)を、是非とも蘇らせていただきたいなどと、身勝手な「夢」を描きつつ帰路に就いたのであった。(2013.1.5)〉それから、ほぼ2ヶ月後、望外にも私の夢は叶ったのである。その作物は、まさに「ひずる版・お吉物語」、師・天津羽衣のそれとは、一味も二味も違っていた。冒頭の、下田町奉行組頭・伊佐新次郎の「ハリスの元に行ってもらいたい」という要請を断固として拒絶する場面は同じであったが、以後の展開は、全く趣を異にする。羽衣版では、次の間に、正装して控えた鶴松との「絡み」へと進むが、ひずる版は、一転して、二世を誓ったあの時、下田港での逢瀬の場面が、回想される。羽衣版は、どちらかといえば「恨み節」、時として、鶴松(男)の身勝手さを責める風情も漂うが、ひずる版は、時代の波に翻弄され、世間の「冷たさ」に抗い切れなかった、お吉、五十余年の生涯を「俯瞰的」に描出する。「お吉物語」といえば天津羽衣、天津羽衣といえば「お吉物語」というほどに、羽衣版が人口に膾炙している中で、「実話」に拘ったひずる版を創出しようとする彼女に、私は心底から拍手を送りたい。後半(時代は江戸から明治に移り変わり)、襤褸切れのようになって暮らすお吉、施された米をばらまいて「世間」に立ち向かう。今では、明治政府の役人に出世した伊佐新次郎、探し当てたお吉の(その)姿に茫然として「謝罪する」が、お吉は許さない。その毅然とした姿が、ありありと目に浮かび、私の涙は止まらなかった。そしてまた、「鶴さん、お酒、一緒に飲もうね」と墓前で語りかける。一瞬、場面は、冒頭の「逢瀬」に蘇えり、私の心中には、おのずと「夢も見ました、恋もした、二世を誓った人も居た、娘ごころの紅椿、どこのどなたが折ったやら」(作詞藤田まさと・作曲陸奥明)という、あの歌声が聞こえて来たのであった。大詰めは、お吉の亡骸を引き取り、法名を授けて丁重に葬る宝福寺住職の件、ちなみに、そのあたりの事情について「実話」(「斎藤きち」・ウィキペディア百科事典)では、以下のように記されている。〈その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる〉。かくて、「ひずる版・お吉物語」は幕となったが、その作風は、あくまで「澄み切った」清冽な情景の連続で、師・天津羽衣の(あばずれ的な色濃い)「泥臭さ」とは、無縁であった。どちらが好きかは聴衆の勝手、「私的」には、「ひずる版・黒船哀歌」くらいは、聴いてみたい気もするのだが・・・。
(2013.3.1)

天津ひずる(妃祥)  (続)お吉物語  曲師・伊丹明