梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

浪曲特選・「雨の山科」(天津ひずる)、「からかさ桜」(澤孝子)

 午後2時過ぎから浅草木馬亭で浪曲を聴く。その一は、天津ひずるの「雨の山科」、その二は、澤孝子の「からかさ桜」。いずれも、女流浪曲界の達人が描出する名品で、まさに「斯界の至宝」、久しぶりに浪曲の醍醐味を堪能できた。「雨の山科」は、御存知「忠臣蔵」の一節、大石内蔵助が「敵を欺くためにはまず身内から」と、妻・りくに向かって心ならずも「愛想づかし」をする場面から始まる。りく、半信半疑に「祇園遊女、浮橋太夫を身請けするという話は本当ですか」と問いただせば、内蔵助、こともなげに「ああ、本当だ。妹のように可愛がってやれ」と言い放つ。りく、まだ半信半疑で「それは、御本心か?」と確かめるが、「ええ、くどい!そちのようなつまらぬ女に用はない。浮橋に子どもたちの面倒はさせられない。子どもたちを連れて出て行け」「私には行くところがありません」「お前の実家があるではないか」という問答の中に、内蔵助の母、子どもたちも登場、義理のため「不条理な」決断を迫られ「離縁」の愁嘆場を演じる一家の面々の景色が、天津ひずるの口演によって、哀しくも鮮やかに描き出され、私の涙は止まらなかった。とりわけ、一同が去った後、息子・大石主税を見送らせながら、「りく、すまぬ。許してくれ」と手を合わせる内蔵助の心象風景は絶品、芝居の舞台を超える出来映えであった、と私は思う。続いて、大御所・澤孝子の「からかさ桜」。江戸向島は桜の名所、長命寺の門前に立つ一本の大木、そこにやって来たのは、五十両の借金が返せずに、首を吊ろうと二の枝にまたがった呉服商北野屋、帯を首に巻いて「南無阿弥陀仏・・・」と唱えたが、下の方ではかすかな人声、見ると若侍と芸妓の二人連れ。「この世で添えぬなら、あの世で・・・、お花、覚悟は良いか。後の始末に百両を置いておこう」。その心中場面を木の上から見ていた北野屋、(欣然として)「そっと首から帯び解いた」。しかし、若侍が振り上げた刀の切っ先が光ったのに驚いて、木から転落、二人連れも「追っ手が来たか!」と逃げ去った。残されたのは「切り餅四つの百両」、北野屋「お侍様!お忘れ物ですよおっ・・・」と追いかけたが、後の祭り。北野屋、思いもかけぬ大金を手にして借金は返済、以後の事業はトントン拍子で十年後・・・。今や表通りに八間間口の大店を構えている北野屋、そこに訪れたのが件の侍と奥方、息子の七五三の祝いにと袴地を物色に来たのであった。かつての若侍はすでに37歳、あの時、叔母の計らいで心中は断念、今では本所に居を構えるまでに出世、芸妓・お花も「花江」と名を変えて奥方に納まっている次第、北野屋いわく「あの時に拝借した百両のおかげで私は死なずに済みました。今、お返しいたします。利子はこの北野屋の身代、すべてお受け取りください」「わしも武士、いったん手放した金は受け取るわけにはいかない」といった清々しい結末で大団円となった。この美談を耳にした長命寺の住職が、件の百両を元手に「三囲社」を建立、その名には、北野屋、若侍、芸妓の三者が十年ぶりに巡り合った由来が込められているという。口演の澤孝子、師匠は「落語浪曲」の名人・広沢菊春だが、その声音・声量は喜寿を超えてますます充実、軽妙・洒脱な「啖呵」も群を抜いている。稀代の名人芸は、今も着実に継承されていることに感動しつつ、今日もまた大きな元気を頂いて帰路に就いたのであった。
(2014.3.4)