梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「犀の角」(ブッダの言葉)

 人は誰でも、誰かと一緒に暮らしている。その誰かとは、例えば親、例えば恋人、例えば配偶者、例えば子・・・。一緒に暮らすということは、単に同居することではない。「心を重ねる」ということである。「心を重ねる」ということは、お互いに相手を必要と感じ、その人と顔を合わせ「対話をしたい」と思うことである。その人と一緒にいると、心が安定し、生きる意欲(元気・やる気)が湧いてくるということである。ところが、その状態は、時として崩れる。いや、必ず崩れる。その状態を、第三者は「うつ病」と名づける。「うつ病」は、肉体の病気ではない。頭痛、吐き気、動悸、めまい、呼吸困難、食欲不振、不眠、関節痛等々、様々な肉体の症状が現出するが、その原因は「精神的な不安定」によるものだ、と私は確信している。したがって、「うつ病」を治す薬はない。にもかかわらず、「うつ病」と呼ばれる人たちは、精神科医に助けを求め、服薬を重ねる。その薬効が皆無とはいえないが、せいぜい肉体症状を緩和する程度に過ぎない。「うつ病」を治せるのは医者ではない。例えば親、例えば恋人、例えば配偶者、例えば子・・・、といった「心を重ねる」相手の存在である。失われた相手をどのように復活させるか、そのことによって「心の中にポッカリと空いてしまった穴」(空虚感、寂寥感)を埋めなければならない。「うつ病」を治すためには、新しい親、新しい恋人、新しい配偶者、新しい子が必要である。新しいとは「別人」ということではない。「うつ病」と呼ばれている人とかかわる、周囲の人たちが「新しく変わる」ということである。周囲の人たちは、その人と心を重ねているか。その人と顔を合わせ、対話をしたいと思っているか。その人と一緒にいると心が安定し、生きる意欲(元気・やる気)が湧いてくるか。そのことが、今、問われているのである。もし、周囲の人たちの中で、たった一人でも、その人と心を重ねることができたなら、その人の「うつ病」状態(精神的な不安定)は、直ちに解消されるに違いない。ただ問題は「周囲の人たち」が皆無の場合、すなわち「一人暮らし」を余儀なくされている人の場合である。その人が「うつ病」状態になることは当然至極、彼は誰と心を重ねればよいのだろうか。親無く、妻(夫)なく、恋人無く、子もいない。誰を頼りに、何を生きがいに生きていけばよいのだろうか。ゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)曰く「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情に従ってこの苦しみが起こる。愛情から禍が生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのれが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め」(「ブッダのことば スッタニバータ 第一 蛇の章 三、犀の角」(中村元訳・岩波文庫・1984年)その人はすでに一人、交わる人、朋友・親友、子・妻に対する「愛着」を捨てて、犀の角(一本)のように、ただ独り歩めばよい(ことは頭ではわかる)のだが・・・。はたして、そのような境地(精神的な安定)に辿り着くことが本当にできるのだろうか。とまれ、条件は揃っている。あとは愛着を捨てることを「生きがい」にできるかどうか、そのことが、今、(私に)問われているのである。(2010.4.25)