梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「大衆演劇」雑考・3・大衆演劇の「役者」

   大衆演劇の役者は、テレビ(映画)俳優と違って、「やり直し」(NG)ができない。また、歌舞伎、新派、新劇などの役者と違って、(多くの場合)「台本」がない。さらに、芝居・舞踊ショーの「演目」は、「日替わり」が原則である。したがって、つねに最低30本以上の「演目」を準備することが不可欠であり、昼夜(1日2回)興行ともなれば60本以上の「演目」をこなさなければならない。現在、どの劇団でも100本以上の「演目」を用意している。「台本」がないからといって、セリフがないわけではない。この演目(役柄)にはこのセリフというように、「決まり文句」が定められている。役者は、それら全て(自分の役以外のセリフまで)を「憶えて」いなければならないのである。 
 また、大衆演劇の「役者」は、大道具・小道具、化粧、衣装の着付け、舞台進行(役者紹介、司会、場内アナウンス)、音響効果、照明効果などの「裏方」、時には、物品販売(前売券、劇団グッズ)、観客の接待なども担当しなければならない。しかも、休演日は月に1~2日程度の「移動(旅)生活」、まさに激務の連続である。それをこなしていくためには、役者相互の「協力」(連帯)が不可欠であり、劇団員は「家族中心」にならざるを得ないだろう。祖父母、両親、子、孫が、同じ舞台で、それぞれの役柄にあった(適材適所の)芝居を演じるところに、大衆演劇の「真髄」(魅力)が秘められているのだ、と私は思う。
 以上が、テレビ(映画)俳優、大劇場の役者と、大衆演劇の「役者」が「決定的に」異なる点である。つまり、「役者が違う」のである。かつて「家族揃って歌合戦」というテレビ番組に「梅澤武生劇団」の面々が出場、その芸を披露したとき、審査員のダン池田が、「ぜんぜん違いますねえ」と感嘆していた場面を思い出す。大衆演劇の「役者」の実力は、どんなに「端(はした)」であっても、テレビ芸人とは「違う」のである。
 さて、芸能界では「やくざ、兵隊の役なら誰でもできる」と言われているようだ。事実、歌手の村田英雄、北島三郎、扇ひろ子などが主演した任侠映画もあるくらいで、鶴田浩二、高倉健、菅原文太、若山富三郎、藤純子、岩下志麻、漫才師の南道郎、仲代達也、高橋英樹など「やくざ、兵隊の役」を見事に演じた俳優は、枚挙にいとまがない。たいていの俳優なら、「誰でもできる」のは事実である。なぜだろうか。理由は簡単だ。「やくざ、兵隊」役に「特別な演技」は要らないからである。既成の社会規範を破れば「やくざ」、従順し、命令・服従の関係をつくれば「兵隊」というよう行動様式を「演じる」ことは、実生活の中で「誰でも」が可能であり、「技(わざ)」として身につける必要はない。つまり、芝居の中でも、実生活の場面でも、私たちは「地のままで」(特別、努力することなく)、「やくざ・兵隊」になることができるのである。
当然のことだが、大衆演劇の舞台に「やくざ」が登場する場面は多い。したがって、役者が「やくざ」をどう演じるか、ということが、その「実力」を測る大きな目安となるだろう。「やくざを演じている役者」は「実力者」だが、無力な役者は「役者を演じているやくざ」の域を出ることはない。両者の間には「雲泥の差」が生じる結果になる。ただ単に、肩を怒らせ、睨みをきかせる所作、大きな濁声を張り上げる口跡だけでは、「柄の悪さ」が強調されるだけで、実生活の場面となんら変わりがない。「こんなヤクザに誰がしたんでえ・・・」といったセリフ・所作の中に、「言いようのないやるせなさ」「ぶつけどころのない煩悶」をどのように表現できるか。まさに「やくざを演じる役者」の「実力」(人間性)が問われることになるのである。残念ながら、その「実力」を備えた「役者」に巡り会えるチャンスは、まだ多くない。これまで私が見聞した舞台の中では、「鹿島順一劇団」座長・鹿島順一、花道あきら、蛇々丸、「見海堂駿劇団」座長・見海堂駿、「劇団荒城」光城真の「実力」が光っていた。
 前章(【大衆演劇の見方】)でも述べたように、「大衆演劇」の真髄は「もどきの世界」を実現することにある。したがって、「大衆演劇」の役者は、大劇場で演じられる歌舞伎、新派、新国劇、新喜劇、新劇、場合によっては映画、浪曲、落語などに登場する人物の役柄を、多種多様に「演じ分ける」ことを要求される。芝居の中では、必ずと言っていいほど、クライマックスの場面で「節劇」が挿入される。「節劇」とは、歌謡曲、歌謡浪曲、浪曲を背景に、複数の役者が「だんまり」(パントマイム)によって「心情表現」する舞踊劇である。この「節劇」を見事に演じることができるかどうか、それも役者の「実力」を測る目安になるだろう。背景音楽のドラマと舞台の場面がピタリと「決まる」(一致する)ことによって、芝居の「主題」が鮮やかに浮き彫られ、観客の感動は倍増される。「節劇」は集団舞踊劇なので、チームワーク(複数の役者の「実力」)が不可欠であり、まさに「劇団の実力」が問われることになる。これまで私が見聞した舞台の中では、「劇団花吹雪」(座長・寿美英二、桜春之丞)、「南條光貴劇団」(座長・南條光貴)、「近江飛龍劇団」(座長・近江飛龍)、「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)の「節劇」が秀逸であった。
さらに、大衆演劇の「役者」は、「舞踊」の実力が問われる。と言うより、「舞踊」の実力が、役者の「実力」だと言った方がよいかもしれない。「舞踊」の所作は、芝居の所作の「基礎・基本」になるからである。舞踊の実力は、まず「歩き方」に表れる。登場、退場、上手から下手・舞台から花道への移動、全て舞台での「歩き方」(時によっては、走り方)は、実生活とは異ならなければならない。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉どおり、「絵になる」歩き方ができるかどうか。次に、問われるのは「立ち姿」の艶やかさと、それが変化する「体の線」である。俗に言う「流れるような線」を描けるかどうか。変化のスピードが早くても、遅くても、その線は保たれなければならない。さらに、問われるのは「顔の表情」(とりわけ目線)である。「体の線」「顔の表情」「目線」がドラマを演出する。舞踊ショーの中で「面踊り」を披露できる役者は「実力者」である。「顔の表情」が一定であるにもかかわらず、「体の線」(動き)と「目線」だけで、人物の「心情」を表現できるからである。「劇団荒城」の子役・荒城蘭太郎の「面踊り」は珠玉の至芸といえる。「橘劇団」女優・條かずみの舞台も見事であった。「歩き方」「立ち姿」「体の線」「顔の表情」「目線」、それら全てが総合化されたとき、舞踊の「実力」(役者の「実力」)が決定する。その実力が、「人形」(美形の表現)に向かうか、「人間」(心情表現)に向かうか、が「芸風」の分かれ道になるだろう。梅澤富美男以来、三枚目が「女形」に変身するサプライズが大衆演劇の「目玉」になったようで、どの劇団でも男優が「女形」を演じることが通例になっている。これまで私が見聞した舞台の中では、舞踊の実力が「人形」に向かう傾向が強いように思われる。(「市川英儒劇団」のキャッチフレーズは「生きる博多人形」である)そのことを楽しむ(美しい人形のような姿を鑑賞することで心が癒される)観客がいる限り、その方向は間違いではない。ただ、それだけでは物足りない。「若葉劇団」総帥・若葉しげるは、高齢にもかかわらず、芝居の中でも「女形」(艶姿)に徹し、「市川千太郎劇団」座長・市川千太郎も初代・水谷八重子「もどき」の芝居に取り組んでいるが、そうした「人間」(女性の心情表現)に向かう方向も貴重である、と私は思う。
 「女形」に徹する場合は別として、男優の「色香」は「立ち役」で発揮されるべきである。その役者が「余芸」として「女形舞踊」を演じたとき、舞台は光り輝くからである。
これまで私が見聞した中で、そのことを具現化していたのは「鹿島順一劇団」唯一であった。舞台に出る役者は、座長・鹿島順一を含めて男優7名(新人1名)、女優2名(新人1名)という規模である。座長の口上によれば、「役者も裏方も人手不足で、現在、照明係はボランティアに依頼、常時『劇団員(特に女優)募集中』というありさま、うちはまさに『劇団・火の車』です」とのことである。とはいえ、この劇団の「実力」は、半端ではない。座長を筆頭に、その妻・春日舞子、長男・三代目虎順、座員・花道あきら、蛇々丸、春大吉、梅乃枝健、など「役者は揃っている」。観客の期待に応えるためには、舞踊ショーでの「女形」が不可欠だと思われるが、1回興行1~2名というプログラムであった。
幕間の喫煙時、耳にした常連客の会話、「もっと『女形』やればいいのに・・・」「あんまり『安売り』したくないんでしょ。『立ち役』だって魅力があるってところ、見せたいのよ、きっと」。その真偽は不明だが、とりわけ、座長の「立ち役」「女形」は、いつまで観ても飽きることがない。立ち役では長谷川一夫と高田浩吉を足して二で割ったような、女形では尾上梅幸と月丘夢路を足して二で割ったような「風貌」だが、その「芸風」「品格」は各々のスター役者を超えている。舞踊において「人間」(心情表現)に向かう方向性の典型ではないだろうか。
(2008.12.12)