梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「大衆演劇」雑考・2・大衆演劇の「大衆」(2)

 さて、大衆演劇の「大衆」(観客)の中で見逃せない存在がある。
私が行きつけの「健康センター」、舞台は二部の「舞踊ショー」に移っていた。ふと気がつくと、私の右隣に老女が一人、座布団に座って、何やらつぶやいている。しかも、うつむいたままで、ほとんど舞台の方を観ていない。舞踊の音楽に合わせて、身体を動かすこともある。「何だ、舞台を観ないで何をしてるんだ!」と思うと、私の関心はその老女の方に向いてしまった。「このおばあさんはどうして舞台を観ないのか。どんなとき、舞台を観るのか」ひそかに観察していると、舞台を観ないのではない、ほんの「一瞬」顔を上げることがある。そして何やらつぶやき、うつむく。「そうか!」、私は直感的に納得した。彼女は、私が十五年間、働いていた「職場」(かつての養護学校、現在、特別支援学校)の卒業生(仲間)に間違いない。そうだったのか!、舞台がはね、観客は三々五々退場するが、彼女はその場に座ったままである。客席に誰もいなくなった頃、ゆっくりと立ち上がり出口に向かう。「送り出し」の役者が深々と頭を下げ、彼女の手を握る。ニッコリした老女は、ゆっくりゆっくり「健康センター」の館内を歩き出した。「もう夜も遅い、一人で帰れるのだろうか」と思案する私を尻目に、彼女が向かったのは、「女性用仮眠室」、入り口で毛布を一枚手にすると、その姿は見えなくなった。誰の手も借りず、自分の意志で、独り「大衆演劇」を鑑賞する彼女の姿に私は感動した。 世間では「障害者」と呼ばれる人たち、彼らもまた「大衆演劇」の「大衆」であり、「劇団」(役者)にとっては、かけがえのない存在(神様)なのである。


 「若葉劇団」座長・若葉しげるは、客席から突進気味に「花を付け」に来たダウン症の青年に、深々と頭を下げ、謝意を示す。「劇団進明座」座長・里見要次郎は、前述した言語障害の青年と舞台で目が合い、「よく、おいで下さいました」と、親しみを込めて平伏する。「鹿島劇団」座長・鹿島順一は、最前列に通いつめる女性客に「毎日、おいで頂きありがとうございます。もうこうなったら、私は、あなた一人のために芝居をします。あなた一人のために踊ります。よーく、見ていてくださいね」と声をかける。このような光景は、全国津々浦々の劇場では「日常茶飯事」であろう。恥ずかしながら、私はかつての「職場」を思い出す。「今日はよく登校して下さいました。これからは、あなた一人のために授業を行います」と言ったことがあっただろうか。


 私が初めて「大衆演劇」を観たのは、昭和四十六年(一九七一年)八月、今から三十六年前の夏であった。場所は東京・足立区千住の「寿劇場」、出演者は「若葉しげる劇団」だったと記憶している。入場料は百円程度、観客は土地の老人がほとんどで、人数も十数人、思い思いの場所に座布団を敷き、中には寝ながら観ている人もいた。芝居の最中に、役者が舞台から降りてきて、団扇をぱたぱたさせながら「暑いですねえ、お客さん」と話しかけてくる場面もあった。それまで、大劇場の歌舞伎、新国劇、新派、新劇などは観たことがあったが、こんなにひっそりと「わびしい」雰囲気の中で演じられる芝居を観たことは初めてであった。しかし、その「わびしさ」に何ともいえない魅力を感じ、以来、断続的ではあるが「大衆演劇」に親しんできた次第である。
今、劇場は「常打ち小屋」約三十、温泉旅館・スーパー銭湯、レジャー施設などに併設される「舞台」を加えると、北は青森、南は熊本まで全国各地・約百二十箇所に点在している。そこを約百三十余りの「劇団」が旅公演して回っているのが現状だが、往時の「わびしさ」は、今も健在である。ほとんどの劇場が、観客数・百名未満であり、平均すると四十名前後というところであろうか。極端な場合には、劇団員の総勢の方が観客数よりも多いことだってある。私が見聞した最少観客数は八名だった。
しかし、実力のある「劇団」は、決して手を抜かない。客の数が少なければ少ないほど、その日の舞台を大切にするのである。外題に冠する「人情劇」の人情とは、ただ単に「演技」として見せればよいというものではなく、役者と客、客と客の間に広く、深く染みわたる心情として、相互の理解・連帯をたしかなものにできてこそ意味がある。競争社会の中で、汚れ、傷つき、乾ききってしまった、私たちの心中に潤いを与え、「愛」を取り戻すアイテムであること彼らは知っている
今日もまた、大衆演劇の「大衆」(私)は、一見「わびしく」劇場に通うのである。
(2008.12.11)