梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・劇団素描「劇団 座・笑泰夢」(総座長・見海堂駿)

【劇団 座・笑泰夢】(総座長・見海堂駿)〈平成20年10月公演・佐倉湯ぱらだいす〉 
 私は、若き日の「見海堂俊」(当時30歳)を知っている。「劇団ママ」(座長・若水照代)の林友廣(当時22歳)、「劇団見城」の見城たかし(当時28歳)、「劇団わかば」(座長・若葉しげる)の若葉愛(当時28歳)、「里見劇団」の里見要次郎(当時21歳)らとともに、雑誌「太陽」(平凡社・1984年9月号)の《特集・女形の美》で紹介されている。その記事によれば、〈「二年間自衛隊にいましたよ。ウン。演芸会のスターだったなあ。ケイコしてれば、演習休んでいいんだもん。いつもケイコしていたよ」いたずらっぽく笑う青年は、栗色に染めた髪に鬢つけ油をゴシゴシつける。見海堂俊は不敵な自信にあふれていた。九州から関東に活躍の場を移して六年。自ら劇団「笑々座」(ニコニコ座〉を興して五年目になる〉とある。それから24年、みんな、みんな年をとった。昨年の今頃も、私は同じ劇場で、見海堂駿の舞台を見聞し、深い感銘を受けた。その時の感想は以下の通りである。〈テレビの「視聴率」が、その番組の「質」に比例しないのと同様に、その劇団の「集客能力」と「実力」は比例しない。連日の「大入り」は「人気」のバロメーターであるには違いない。しかし「大入り」を目指して、修業を怠ればすぐに飽きられてしまう。大切なことは、大勢の観客を喜ばせるよりも、「お寒い中、お足元の悪い中、そして数ある娯楽施設のある中、当劇場に御来場下さいましたお客様」を「感動」させることである。大衆演劇の観客は、ただ単に「芝居」や「踊り」を観に行くのではない。「役者に会う」ために通っているのである。言い換えれば、役者とのコミュニケーションを求めるために行くのである。役者が舞台から降りてきて「暑いですねえ、お客さん」と話しかけてくるところに、大衆演劇の真髄があるのだから、観客にとって役者は「他人とは思えない」のである。したがって、観客は、今日の「入り」の状況を役者以上に心配している。そんな時、「客の入り」など歯牙にもかけず、淡々と「いつものように」幕を開け、笑顔で演じとおせる劇団が、本当に「実力」のある劇団といえよう。たった8人の客を相手に、喜劇「もどき」の「権左と助中」を見事に演じた(佐倉・湯ぱらだいす)「見海堂駿劇団」を私は心から尊敬している。後日、同じ劇場、同じ劇団、観客は「大入り」であったが、舞台の「できばえ」は、その時に及ばなかった。「大衆演劇」の「できばえ」は「一期一会」であり、観客との(無言の)コミュニケーション(阿吽の呼吸)に因るということの、恰好な一例といえる。それゆえ、各劇団は、「客の入り」が少なければ少ないほど、舞台に全力を投入しなければならないと、私は思う〉
 さて、今日の芝居の外題は「太郎の涙、情けの取り縄」、筋書は大衆演劇の定番、三人兄弟の、長兄(座長・大和城二)が十手持ち、次兄(見海堂真之介)が盗賊、末弟(総座長・見海堂駿)が穀潰しの阿呆、盲目の父親(見海堂翼?)も絡んで、長兄が次兄を召し捕るという、時代人情悲喜劇の「お手本」のような舞台であったが、観客数二十人弱、大半が「御贔屓筋」とあって、さすがの総座長もも「心、千々に乱れた」と思う。〈お客さんが喜べばそれでよい〉がモットー、今日は一番、その御贔屓筋の「酒の肴」に徹してみようか。かくて、総座長演じる末弟の言動は「型破り」に終始し、舞台は「お座敷芸」の景色に「一変」した。それはそれでよいと、私は思う。第二部、舞踊ショーでの立ち役舞踊、「男同士」「哀愁の高山」こそ、見海堂駿の「真骨頂」、男優は「立ち役の色香」を描出できてこそ「名優」といえるのである。鹿島順一、南條隆、都城太郎、大川龍昇と並んで、斯界のベスト・ファイブ(五本の指)に数えられる「出来栄え」であった。もう一人、若手・見海堂光の女形舞踊も「逸品」、長身のハンデを見事に乗り超えていたことに拍手したい。「花と龍」(唄・美空ひばり)の相舞踊は、かつての「梅沢劇団」、市川吉丸・竹澤隆子の舞台が、私の目に焼き付いて離れない。その風情を彷彿とさせてくれたことに感謝しながら、帰路についた。
(2008.10.15)