梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「プロローグ・海」(4)

 「なあんだ、そこにいたの。帰っちゃったのかと思ったわ」
  ボクはまたドキリとしました。K子さんの声です。ボクは思わず起き上がると、K子さんはボクの横にすわって自分のタバコにライターで火をつけました。そのうえ、ボクの知らないうちに駅の売店ででも買ったのかもしれません、ウイスキーのビンをあけてそれを飲みはじめたのです。ボクは、学生さんはカッコいいなあと思いました。  
 「寒いでしょ、飲まない」
  ボクはまたオロオロしてしまって、はい、いただきますとか何とかいって、そのウイスキーを飲みました。するとどこからか歌声が聞こえてきたのです。青い月夜の浜辺には親をさがして鳴くとりが、それもやはりK子さんの声でした。でも今度は意外なことに、ボクはそのことによって気が大きくなりました。それはウイスキーのせいではありません。ボクはその歌を知っていたからです。そしてボクはそんな歌を決して歌いなどしなかったからです。K子さんは絵などかけないだろうなと思いました。でもボクはまた失敗してしまったのです。なぜならK子さんは、今度は全く別の調子でボクの全然しらない歌を唄ったからでした。それはたしか「白鳥は悲しからずや海の青空の青にも染まずただよふ」というようなものだったと思います。ボクはもうヤケクソになってウイスキーをガブガブ飲みました。すると思いがけなくボクはおしゃべりになっていくのです。 「K子さん、寒くありませんか。コートをお貸ししましょう 」。そればかりか、知らずボクはK子さんを抱き寄せていました。K子さんが燃えるように熱くなって、ボクはウイスキーの匂いのする唇にキスをしました。そしてボク達は砂浜の上に抱き合って寝たのです。でもボクは燃えるような熱さにたえられなくなって眼をさましました。そして起き上がって眼をしっかりと見開くとボクは仰天しました。燃えているのです。海がそして空がそして目の前のものすべてが燃えているのです。それにもましてあげくのはてにボクの抱いていたK子さんまでが燃えているのです。いったいどうしたのでしょう。しかし一瞬、ボクはこのことに思い当たることがあるのを思い出しました。これはどこかでたしかにボクが経験したことがあるのです。そして熱さに耐えながらやっとのことで、ボクはそれがあの岩の海岸でかいたボク自身の絵に他ならないことに気づいたのです。でも次の瞬間ボクは再び気を失いかけたのでしょう、炎になってしまったK子さんをもう一度抱きしめようとしたことだけかすかに覚えています。
(1966.3.10)