梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)通読・3

梨野礫

《三 快・不快》
【要約】
・情緒を、内容的なものを中心にして分けると、快・不快に分けることができる。
・くやしさ、怒り、淋しさ、悲しさはなどは、不快の情緒である。うれしさ、おかしさ、美しさ、めずらしさ、かわいさなどは、快の情緒である。快の情緒は、生理的な現象を伴うが、衝動的に現れるとはいい難い。
・先の定義に「躍動的な行動、はつらつとした心情を伴う」という言葉を加える必要があるだろう。
・快の情緒は、人の心身を順調に働かせる源泉になる。
・快の情緒が豊かで、しばしば現れる人は、心身ともに健康であるから、情緒障害を起こすことは少ない・
・情緒障害におちいりやすい人は、何らかの原因で、不快の情緒にとどこおっている人である。
・したがって、情緒障害におちいっている人に対して、快適な情緒をもてるような機会を与えること、自らがそのような時間をもつように行動することは、情緒障害を治してゆくための原則の一つである。
・元来、人は不快を避けようとし、快を繰り返そうとする傾向がある。
・競争心はやる気の一部にはある。しかし、敗者は不快の情緒にかられてやる気を失っていくので、上位・下位がつねにその効果を相殺して、全体としては一定の能率しか上がらない。(学校の相対評価も同様である)
《快を志向し不快を避けるという原則を個人の問題として考える》
・管理者が部下にとってもらいたい行動A・B・C、やってもらいたくない行動O・P・Qがあるとする。部下がOの行動をとった時、管理者が部下のその行動を叱ると、部下は不快な結果をもたらすO行動は避けようとする。しかし、それはただちにA・B・Cの行動におもむかせるものではない。P行動をとるかもしれない。Pを叱れば、P行動を避けようとするかもしれないが、Q行動を選ぶようになるかもしれない。したがって、叱って指導することは、ただ叱ることを繰り返す結果になる。部下がAという望ましい行動をした時に、ほめて快の情緒を起こさせた時には、その部下はAの行動を繰り返そうとするから、直接的に管理者の意図する行動を期待することができる。
(“二つ叱って、三つほめ・・・”といわれるゆえんである)
・人間は複雑だから、この原則はそのままあてはまるものではない。
・人間がこの原則にしばられていると、もともと不愉快な職業(医者など)を選ぶ人はいなくなるだろう。毎日、患者と接することは愉快ではない。しかし、その患者が治ってゆくのを見ることは愉快なことである。この快・不快の織りなす複雑さの中で、快がわずかでも不快を凌駕している時、われわれは目の前の不快をのりこえることができる。
・つねに教師から認められていない(不快)と感じている子どもが、あえて叱られる(不快)ような行動をしてでも、認められないことの不快さを逃れようとする場合もあり得る。認められない不快さの方が、叱られることの不快さよりもその程度が強いと解釈できるし、叱られることの不快さより、そこに起こってくる「叱られる形での認められる」ことの快を追おうとしていると説明できる。
・スリルを味わうという心理も似ている。目前にある恐ろしさという不快を避ける力より、その解決した時の楽しさという快を予想し、それを味わうことを求める力の方が強いのであろう。(=こわいもの見たさ)
・本書では、情緒について述べる場合、主として不快の情緒について述べることになる。


【感想】
 情緒障害におちいりやすい人は、不快の情緒にとどこおっているので、「快適な情緒をもてるような機会を与えること、自らがそのような時間をもつように行動することは、情緒障害を治してゆくための原則の一つである」という著者の見解はよくわかる。また、集団に対して競争心をあおることは、勝者に快の情緒をもたらすと同時に、敗者には不快の情緒をもたらすので、「全体としては一定の能率しか上がらない」という指摘も、学校教育の現状をみれば十分に納得できることである。
 「元来、人は不快を避けようとし、快を繰り返そうとする傾向がある」ので、情緒障害を治してゆくためには、快適な情緒をもてるような機会を与えることが《原則の一つ》だが、そのほかにどのような原則があるだろうか。その人が、なぜ「不快の情緒にとどこおっている」のか、その要因を明らかにすることも大切であろう。「この快・不快の織りなす複雑さの中で、快がわずかでも不快を凌駕している時、われわれは目の前の不快をのりこえることができる」と著者がのべているように、不快をのりこえた快こそが、健全な情緒をもたらすのではないだろうか。だとすれば、「不快を避けようとする傾向」(自体)の中に、情緒障害におちいる要因が隠されているのではないか。
 私は、人間の情緒は「不快」から始まると考えている。その不快の程度が大きければ大きいほど、不快が取り除かれた時の「快」もまた大きいのだと思う。したがって、いたずらに、不快を避けようとすることは賢明ではない。快だけの情緒で育つことはあり得ない。そこらあたりについて著者の見解は如何に?。以後を読み進めることで明らかになるかもしれない。
(2017.1.3)