梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『「自閉」をひらく 母子関係の発達障害と感覚統合訓練』(つくも幼児教室編・風媒社・1980年)精読・18

◆症例4.女(昭和46年7月20日生)
・6歳2カ月の時、通園中のE肢体不自由児通園施設にて面接をした。
・脳性マヒ(四肢マヒ)のため座位も保持できない。
・対人関係はよくとれ、言語理解力はほぼ年齢相当であったが、言語表出では、発声・発語器官のマヒの影響で、発声しようとすると緊張が強まり声が出ないことが頻繁に見られた。(リラックスした状態でも、母音がやっと区別できる程度)
・筆者は、母に訓練内容を覚えてもらおうと、就学までの3か月間、週1回の指導を実施した
・一方、本児はそれ以前に、田口理論を実践するD言語治療機関へ1年以上通級し指導を受けてきた。そこでの指導は、母子関係の改善のための「楽しい遊び」をすることが主で、声・発発語器官の運動機能改善にための指導は受けていなかった。さらに、集団生活の場であるE施設への通園は望ましくないと言われ、母とE施設職員は困り、結局、D言語治療期間への通級を中止した。
【感想】
・6歳2カ月の時、「対人関係はよくとれ、言語理解力はほぼ年齢相当であった」ことと、それ以前に「田口理論を実践するD言語治療機関へ1年以上通級し指導を受けてきた」ことに《因果関係》があるかどうか。もし、D機関への通級当初は母子関係が十分でなく、本児に「自閉傾向」があったとすれば、母子の「楽しい遊び」が功を奏したことになる。また、通級当初から「対人関係はよくとれ、言語理解力はほぼ年齢相当であった」とすれば、D機関の指導は「的外れ」(不適切)ということになるが、その点は不明である。
・また、「リラックスした状態でも、母音がやっと区別できる程度」の本児に対して、著者は、どのような「発声・発語器官の運動機能改善」のための指導を行ったのだろうか。また、その結果、本児の発声。発語はどのように変化(改善)されたのだろうか。D機関がその種の指導(訓練)をしなかったのは、①できなかった(技術不足)、②しても効果を期待できなかった、③しない方がよいと判断した、のいずれかと思われるが、著者の記述からは、はっきりしない。
・「さらに、集団生活の場であるE施設への通園は望ましくない」という助言は、本児の実態(対人関係はよく、言語理解力はほぼ年齢相当)からみると「不適切」だと思われる。ただ、E施設の集団よりも、「普通児の集団」の方が望ましいと判断したのかもしれないが・・・。その点も、著者の記述からは、はっきりしない。


◆症例5.女(昭和47年2月27日生)
・本児は重度の脳性マヒのため、1歳7カ月よりF肢体不自由児通園施設に通園していた。筆者がF施設の言語指導を担当していた関係で、3歳9カ月より月2回程度、集団での言語指導を受けてきた。対人関係はよくとれ、言語理解は年齢相当であったが、言語表出では発声も満足にできない状態であった。筆者は、①発声・発語器官の運動機能の向上を図ること、②発声の改善の2つを目標として言語指導を実施した。また、他の施設でボバース法による理学療法を受けていた。
・4歳9カ月の時、田口氏の個人面接を受けた。田口氏は、母に対し、次のような助言をした。①本児の言語は、今後「周囲の働きかけによってことばも伸びる」から、心配はいらないだろう、②F施設での発声・発語器官に対する言語指導は「おまじない」である。③ボバース法による訓練はあまり効果がないだろう。④また、母の養護学校に入学できるかとの質問に対し「親がその気になれば本児を(小学校の)普通学級に入れられる」と答えた。具体的には、強引にでも母が本児を教室に連れていって、小学校に「入学」してしまうことらしい。
・本児は、現在、某養護学校特殊学級一年に在学している。筆者たちは、小学校普通学級は無理でも、養護学校普通学級入級は可能と考えていたが、現実の教育制度のもとで、①重度脳性マヒであり、②言語表出に著しい遅れがある等の理由により、養護学校特殊学級に回されてしまった。
・入学3か月後の夏休みに本児に会ったが、機能訓練や言語指導はほとんど行われず、四肢の痙直はひどくなっていた。発声もやや堅い声となり、全身の強い緊張をともなう状態となっていた。このような後退とも思える症状はF施設通園中にはみられなかったことである。
【感想】
・著者は、症例の女児に対して3歳9か月から就学時まで、①発声・発語器官の運動機能の向上をはかること、②発声の改善の2つを目標として言語指導を実施した。指導開始から1年後、母親が田口氏の個人面接を受けたが、その際「その言語指導は『おまじない』であると言われた。また就学後、(現実の教育制度のもとに)本児は某養護学校特殊学級に「まわされて」しまい、「機能訓練や言語指導はほとんど行われず、四肢の痙直はひどく」なってしまった。「さらに、発声もやや堅い声となり、全身の強い緊張をともなう状態」となってしまった。このような後退とも思える症状はF施設通園中はみられなかった、ということである。
・著者の記述には、自分の「言語指導」を田口氏から「おまじない」と評され、せっかく発声・発語器官の改善ができたのに、就学後の養護学校に引き継がれていかない「無念さ」「憤り」が感じられる。著者の思いは田口氏と「教育制度」の双方に向けられているが、この章では「田口理論」がポイントなので、田口氏の助言内容を吟味したい。まず、①本児の言語は、今後、「周囲の働きかけによってことばも伸びる」から心配はいらないだろう、という助言は「対人関係はよくとれ、言語理解は年齢相当」という本児の実態からみて「適切」だと思う。②で著者の言語指導を「おまじない」と評したことは「失礼」である。ただし、田口氏は肢体不自由児「療育」の専門家であり、これまでに「発声・発語器官の運動機能向上」のために、さまざまな経験を積んだことはたしかである。しかし、思っているほどの効果はみられなかった。そうした「悔恨」「自戒」の気持ちが、「おまじない」ということばの中に込められていたのかも知れない。「その子なりの発声・発語」を言語表出として受けとめ認めるように、こちら側の姿勢を変えることが大切であることを強調したかったのではないだろうか。③ボバース法による訓練はあまり効果がないだろう、は私自身、ボバース法に関する知識がないので、論評できない。④の就学指導では、「対人関係がよくとれ、言語理解は年齢相当」であれば、まず「小学校普通学級」という環境を準備することが望ましいと考えて当然である。重度の脳性マヒであれば、生活面・運動面・学習面等でで大きな支障が生じることは明らかである。しかし、周囲の対応次第では、その支障を乗り越えることも可能になる。現行の「教育制度」を守ろうとするか、改めようとするかで見解は二分されるが、田口氏の助言が「暴論」「極論」であるとは、私には思えない。
・さて、次節はいよいよ著者自身の「3.考察・・田口理論実践面での問題点」が述べられる。興味をもって読み進みたい。
(2016.4.5)