梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

『「自閉」をひらく 母子関係の発達障害と感覚統合訓練』(つくも幼児教室編・風媒社・1980年)精読・19

《3.考察・・・ 田口理論実践面での疑問点》
⑴田口理論の適応について
・「ことばの遅れ」の要因は,田口氏の古い著書(「言語発達の病理」・医学書院・昭和45年)から引用すると、①知能発達の遅れ、②聴覚障害、③発語器官の異常、④情緒的要因、⑤中枢神経機能障害、⑥環境的条件、である。筆者も同じ見解である。
・田口理論は、その著書から判断する限り、言語発達遅滞児の中の母子関係に問題のみられる児童に対する理論と考えられるが、田口氏らの著書では、言語発達遅滞をテーマにしながら内容は母子関係のことがほとんどであるなど、言語発達遅滞即母子関係の問題と受け取れる表現が多い。田口理論の臨床場面では、症例4のように、言語発達遅滞児すべてに田口理論を適応させようとする傾向がみられる。
・症例4は重度脳性マヒ児であるが、対人関係はよくとれ、施設の集団生活もよく適応しているにもかかわらず、母子関係改善の指導がなされ、施設を退園するように言われていた。本児は上記③に該当するケースであり、田口理論の適応外の児童であろう。
・もし、このようにすべての言語発達遅滞児に田口理論が汎用されていくなら、言語発達遅滞が改善されないばかりか、手おくれという事態が発生することが予想される。
・症例3では「じっとしている」段階の指導が1年間続けられてきた。本児は田口理論による指導前に対人関係がとれ始めており、指導当初から、母からの働きかけをする段階ではなかったろうか。
・また、進歩の遅い子の場合、田口理論を終始一貫徹底して実行しているかが問われるため、症例3のように同一指導内容を長期にわたって実践し続けるという例は、今後も出てくるであろう。このような同一内容による長期の指導は、望ましい変化がみられればよいが、そうでない場合、3か月なり6か月なりの時点で見当を要するのではないだろうか。
【感想】
・著者はここで症例4と症例3の「問題点」を指摘している。
・症例4は「発語器官の異常」(脳性マヒ)を要因とする「言語発達遅滞児」であり、「田口理論の適応外」だとしている。また著者は「◆症例4.」で「本児は筆者の面接前に、田口理論を実践するD言語治療期間へ1年以上通級し指導を受けてきた。そこでの指導は、母子関係改善のための「楽しい遊び」をすることが主で、発声・発語器官の運動改善のための指導は受けていなかった」と述べていることから、要するに「発語器官の異常が明らかなのに、その改善の指導は行わず、母子関係の改善だけを行った」ことが問題だということであろう。重要なポイントは、①本児はD機関で指導を受ける以前はどのような状態であったか、対人関係はよくとれていたか、②D機関の「楽しい遊び」は、発声・発語器官の運動改善とは「無関係」であったか。という二点に絞られると思う。著者は当然、本児はD機関に通級する以前から「対人関係はよくとれ、言語理解力はほぼ年齢相当であった」と考えているだろう。また、D機関の「楽しい遊び」は無駄であり、発声・発語器官の「指導」を行うべきであると考えているに違いない。しかし、D機関への通級以前は、緊張が強く、対人関係が十分にとれなかったかもしれない。1年間の「楽しい遊び」により、本児の緊張がとれ、対人場面でも「割合リラックスした状態」を保てるようになったかもしれない。その確証はないが、著者の【症例4。】の記述からは、その反証は読み取れなかった。
・著者は「すべての言語発達遅滞に田口理論が汎用されていくなら、言語発達遅滞が改善しないばかりか、手おくれという事態が発生することが予想される」と危惧しているが、「まず母子関係を成立させる」という田口理論は、障害児に限らず、すべての子どもに「適応」させることが大切だと、私は思う。それが成長・発達の原点になるからである。知的障害児であれ、ダウン症児であれ、聴覚障害児であれ、視覚障害児であれ、脳性マヒ児であれ、そして今注目の「発達障害児」であれ、それ以外の「健常児」であれ、母子の「愛着関係」が不十分であれば、「自閉傾向」(自閉症状)をはじめ、さまざまな「手おくれという事態が発生することが予想されるのである。
・症例3に対する著者の見解は、私も全く同感である。治療期間担当者は、田口理論の真意を深く理解せずに、一つの「技法」だけを「マニュアル」化し、目の前の母子関係を的確に「見ていなかった」責任を問われると私も思う。 


⑵集団生活への参加について
・田口理論では、幼稚園が楽しい状態になった児童には「集団生活の中での・・・ことばの刺激が、子どもの成長に本当に役立つ」と、集団生活の役割を認めているが、臨床場面での集団への参加は「遅すぎても実害はありませんが、早いほうにまちがうと、あとあとまでその悪影響が残り、回復がたいへん」というように消極的である。そのため、対人関係がとれにくい子どものほとんどは、集団生活をやめるよう指導されることになる。
・症例1,2は通園開始前にそのような指導がされ、症例4では対人関係に問題なく集団生活にもよく適応しているにもかかわらずやめるよう指導されている。症例4のような指導がなされるのは、担当者にとって、集団生活に参加させない方が「安心」できるからかもしれない。
・最近、幼児教育の分野では、自閉症や自閉的傾向のある児童を早期に集団生活に参加させ、成果をあげている報告も多い。田口理論を実践する人たちが、集団生活を否定する前に、このような臨床報告を検討してほしいと思う。
・筆者は、集団生活への参加について、ある程度母子関係がついていれば、当初は他の子どもの遊びを見せるような段階より、参加させてよいと考える一人である。
【感想】
・以上の記述で、①〈症例4のような指導がなされるのは、担当者にとって、集団生活に参加させない方が「安心」できるからかもしれない〉、②〈田口理論を実践する人たちが、集団生活を否定する前に〉という部分が気になった。①で、担当者にとって、集団生活に参加させない方が「安心」できる、ということはどういうことであろうか。「安心」が必要なのは子どもの方であって、担当者ではない。担当者が「安心」しても、子どもの問題は解決しない。子どものことはさておいて、自分が「安心」したいなどと思う臨床家がいるだろうか。もし、症例4の子どもが「集団生活が楽しい状態」になっていたとすれば、担当者の判断は誤りである。「集団生活の場であるE施設への通園は望ましくない」と助言したそうだが、その理由は何だったのか、はっきりしない。また②では、田口理論を実践する人たちは、やみくもに「集団生活を否定する」ように書かれているが、田口理論が集団生活を否定しているとは思えない。そのことは、著者自身が「集団生活の中で・・・ことばの面での刺激が、子どもの成長に本当に役立つ」という部分(『ことばを育てる』・田口恒夫、増井美代子・日本放送出版協会・昭和51年)を引用していることからも明らかである。
・子どもが「集団生活への参加」が可能になる時期は、子ども自身で決めることが原則である。他児への関心が高まる、他児の行動を真似しようとする、他児の集団の中に自分から入っていこうとする、自分から他児に働きかける、そのような様子が見られたとき、が集団生活に参加する時期だと、私は思う。大切なことは「慣れる」ことではなく、「楽しさ、喜びを感じる」ことである。田口理論が集団生活に消極的なのは、早くから慣れさせようとして、不安や緊張を高めてしまい「回避」「拒否」行動が増えること危惧するからであろう。また、田口理論では、集団生活へ参加する前に、母子の「楽しい遊び」を「1千時間」重ねることが推奨されている。したがって、さまざまな事情により、そのような「母子のかかわり」ができない場合は、他の手段を講じる必要がある。田口理論を実践しても「結果がはかばかしくない」ケースでは、母親と臨床家の「信頼関係」が不十分であることが多いのではないだろうか。母親自身が田口理論を信頼せず、拒否していれば「結果が出ない」ことは当然であろう。そうした母親とどのように「信頼関係」を築き上げるか、それは臨床家の切実で大きな課題である。
・著者は「ある程度母子関係がついていれば・・・参加させてよい」と考えているが、《ある程度》の目安は《どの程度》なのだろうか。私は《子どもの関心が母親より友だちの方に向いてきたら》《参加させた方がよい》と考える。
(2016.4.6)