梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症」への《挑戦》・4

⑶ 相手との「接し方」・Ⅰ
 ①相手に働きかけない
 まず、相手と「同じ場所」「同じ時間」を共にする。つまり「相手と一緒にいる」ことから始める。「できるだけ長い時間、一緒にいる」ことが大切である。そのためには「寝食を共にする」ことが理想である。親や家族はその条件を十分に満たす立場にいる。
 その際、最も重要なことは「こちらから相手に働きかけない」という《原則》である。相手が新生児、乳児の場合を別として、「相手を見ない」「呼びかけない」「話しかけない」「触らない」ことを徹底するべきである。なぜか。相手の方からこちらを「見る」、こちらに「呼びかける」「話しかける」「触ってくる」場面を作るためである。初めての場面では、自分を守るために「相手から遠ざかろう」「回避しよう」と思うことは自然であり、誰もがすることである。したがって、その場から逃げ出そうとしても、やむを得ない。「今、相手はこちらを警戒している」と感じればよいのである。そして「今、自分が相手を脅かす存在になっている」ことに気づかなければならない。初めての場面はそれで終わるかもしれない。しかし「決してあきらめない」、次の機会を「待つ」ことが大切である。
 次は「その場から逃げ出さない」ことをめざす。相手の「好きな物」「好きなこと」を準備して待つ。相手はその「好きな物」「好きなこと」への関心が強く、逃げ出さないかもしれない。「自閉症」と呼ばれる子どもたちは、「人間嫌い」ではない。私たちと同じ気持ちを持っている。人間に対する関心が強すぎて、警戒してしまう。避けようとしてしまう。「近づきたい、でも近づけない、どうしようか」という葛藤(矛盾)を抱えているのではないだろうか。相手の「好きな物」「好きなこと」への関心が弱まり、こちらに対する関心が芽生えるようになるまで「待つ」ことが大切である。
 次は「相手の関心がこちらに向くようになる」ことをめざす。「相手を見ない」「呼びかけない」「話しかけない」「触らない」など《働きかけない》ことを徹底していると、相手は《必ず》こちらを「見る」(窺う)ようになる。こちらはその「気配」を感じ取らなければならない。はじめは、遠くからこちらを「チラッと見る」、こちらの周りを回りながら「しっかりと見る」ようになる。そして、こちらに近づき、「肩でぶつかる」「足を踏んだり」「体を叩いてくる」など、向こうから「働きかける」ようになるのである。大切なことは、相手が「警戒心」を解くことである。「この人物は危険ではない」と《安心感》が持てるようにすることである。もし、相手が近づいて来たら、触りかけて来たら、こちらは「反応」しなければならない。その「反応」が、相手の「関心」をさらに高めるようなものであれば、素晴らしい。肩がぶつかったら「アイタ!」と声を出すのもよい、近づいて来たら「睨んで」「マテマテ」と追いかける素振りをするのもよい。叩いてきたら、その手をつかまえて「抱きしめようとする」のもよい。そうした「かかわり」を相手が楽しむようになれば、成功ということになる。
以上は、相手が幼児である場合の「接し方」「かかわり方」の一例だが、ある臨床家は6歳児男児と「かかわった」様子を以下のように綴っている。
  
◆私は小さな学校で、6歳になるひどくひきこもったひとりの男の子を観察していました。その子は積木で一生懸命に遊んでいました。はじめは積木を高く積んでいましたが、次に階段を作り、それからまたぜんぶ箱の中のハメ板の穴に収めました。(いつも同じ)間違ったところへ入れようとしていた時、教師が手を出そうとしたので、私は急いでそのままにしておくようにと身ぶりで知らせました。自分で考えた仕事をひとつ終わるたびに、子どもは立ち止まってできた作品を満足そうに眺めていました。最後には静かにリズミカルに手を叩き始めました。拍手が終わったとき、すぐそれに続いて私が代わって同じリズムで同じように拍手してみました。その子は私の方を振り向き、一瞬さっと私を見て、それからまた前に向き直って私の拍手に応えてまた手を叩き始めました。そういう「対話」がしばらく続きました。それから私が拍手のしかたを少しかえてみたところ、嬉しいことに子どものほうもそっくりそれをまねてくれました。これもしばらく続き、こんどは子どもの方がリズムを新しいものに変えてきましたので私もその「指示」に従いました。それから子どもはそういう「会話」を続けながら部屋の中をうろうろ歩き始め、しばらくあてもなくさまとったあと、急に気が変わったように「偶然」に私の近くにきて、私のすぐわきの道路で腹ばいになりました。これは興味深いことですが、子どもの足が私にいちばん近い位置になっており、ちょうど私の手の届くところにきていました。そこで私が同じリズムで子どもの足をバタバタ叩いてみますと、それが子どもを喜ばせたようでした。それは、子どもがそれに「答えて」手を叩きながら少し私のほうににじり寄ってきたことからもわかりました。子どもがだんだん近くに寄ってくるので、手を伸ばすと子どもの脚にそれから尻に私の手が届き、おしまいにはジーパンとシャツの間の背中の出ているところをくすぐることもできました。子どもは喜んで身をくねらせながら、さらに近くにすり寄ってきました。残念ながらちょうどその時もうひとりの大人が部屋に入ってきたのでこのやりとりは終わりになってしまいました。その子の教師は、その間ずっと完全にじっと座っていたのですが、子どもが自分から進んでやりとりをしたり声を出したりするのを見て(ここ数週間一度もなかったようなことなので)目をみはるおもいだったということです。(『自閉症治癒への道』(エリザベス・A・ティンバーゲン・田口恒夫訳・新書館・1987年)


 この「かかわり」のポイントは、①子どもが積木を間違ったところへ収めようとしたと時、「教師が手を出そうとした」のを「身ぶりで制止した」こと、②子どもが拍手するのを見て、「私」も拍手したこと、③子どもが(拍手を模倣した)「私」を「一瞥」してまた拍手を始めたとき、「対話がはじまった」と感じたこと、④それを1回で終わらせずに何回も繰り返したこと、⑤こちらが拍手のリズムを変えて、相手の「反応」を探ったこと、⑤相手もそのリズムを模倣した時、「うれしい」と感じたこと、⑥その(話しかけない)「対話」を重ねるうちに、相手が近づいて来たこと、⑦近づいたのは、「触りたい」「触ってもらいたい」という気持ちがあったからではないか、と「私」が判断したこと、⑧その「判断」が的中して「くすぐり遊び」に発展したこと、⑨そのことを子どもが「喜んだこと」、である。中でも重要なことは、①教師の介入を阻止したこと、②子どもの行動を「私」の方が模倣したこと、そして「私」と子どもの両者が「うれしい」「喜び」という感情を「共有」したことだと、私は思う。「接し方」「かかわり方」として、たいへん有益な実践例ではないだろうか。


 さて、相手が青年、成人の場合にはどうするか。「相手を見ない」「呼びかけない」「話しかけない」「触らない」など、《働きかけない》という《原則》は変わらない。しかし、彼らは、幼児に比べて「成長」しているのだから、その能力に応じた「適応」を示すに違いない。「その場から離れようとする」「暴れる」「奇声を発する」ような場合には、やはり、こちらを「警戒」「拒否」していると考えて「無理強い」しないことが大切である。「今日は、対面、同席できた」ことを「是」として、次の機会を待つ他はない。《幼児の場合と同様に》、本人の「好きな物」「好きなこと」「安心できるもの」を準備して「待つ」ことが肝要である。
 幸いにも、「一緒にいる」ことが可能になったとき、相手は「どんな表情か」「何をしているか」を《直視》しないで、「気配」から感じ取る。もし「黙ったままでいる」場合には。こちらも「黙ったまま」相手を「チラッと見る」。「体をゆらしている」場合には、こちらも「体をゆらして」見る。ポイントは、「相手がこちらを見る」回数を増やすようにすることである。そのためには、こちらが「何かを書く」「何かをもてあそぶ」「ウン、ううん」など咳払いや意味のない声をだす」「溜息を吐く」「独り言を言う」「鼻歌を歌う」などの行動を示して、相手の反応を見る。要するに、《対話》のチャンスを作るのである。こちらの行動を見て、相手が「笑った」「同じように真似した」「話しかけてきた」などの場合には《対話》が始まったと考える。
 青年・成人の多くは、ゲーム、パソコン、スマートホン、バイク、電車、装飾品、スイーツなど多種多様な「嗜好」があるはずである。それらを利用して、相手の関心をこちらに向けることを、「あきらめてはいけない」。
 特別な例としては、「相手の方から積極的に」《働きかけてくる》場合がある。相手は、こちらを「警戒」「回避」することなく「接近」して来るのだから、「うれしい」と感じて、こちらが「喜ぶ」ことが大切である。「話し始めたら止まらない」「同じことを何度も質問する」という行動を「困った」「どうしよう」「変だ」と感じる前に、相手は今、「どんな気持ちでいるだろう」「こちらに何を求めているのだろう」「そのことに自分は十分応えているのだろうか」と反省する方が先である。相手は「コミュニケーションを求めている」「話を聞いてもらいたい」「自分を認めて(ほめて)もらいたい」のかもしれない。そのことにどう応えるか、それは、まさに私たち自身の「あり方」が問われる極めて重要な課題なのである。そして、相手の気持ちを「共有・共感」できたとき、不思議とその「困った」「どうしよう」「変だ」という思いは消失するのである。
(2016.4.21)