梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

マスクする人、しない人

 「東京新聞」朝刊『発言』欄に「外食時の会話マスク着けて」という投稿があった。投稿したのは東京都在住、60歳台の女性だ。その全文は以下の通りである。
〈先日、自宅近くのドーナツ店に久しぶりに行きました。新型コロナの感染対策が心配でしたが、店員はマスクを着け、レジにはビニールがつり下げられ、消毒済みのトレーとトングが箱に入っていました。
 ただ、気になることがありました。マスクを着けずに会話をしているお客さんのグループが何組かいたのです。テーブルとテーブルの間に仕切りはありません。私が一人で着席してドーナツを食べていると、すぐ隣に座った親子三人がマスクを外し、普通におしゃべりを始めました。
 コロナは飛沫感染します。会話するときはマスクを着けてほしいと思います。店だけでなく、お客さんも感染予防を心掛けていただきたいです。
 コロナはまだ収束していません。外食を楽しむときでも、そのことを忘れないようにしましょう。〉
 新型コロナウィルスに対する不安が、いかに根強く人々に浸透しているかを知るうえでは恰好の内容だが、私自身も「ただ、気になることがありました」。それは、コロナに感染することは、あるいは感染させることは「あるべきでない」「あってはならない」という断固とした信念(前提)に立っていることである。感染も発病もせずにすめば、それにこしたことはない。《ただ》、もし、運悪く感染した場合、そのことを「受け入れられるか」「許せるか」という『寛容』の感性が問われるのではないか。
 はたしてマスクだけでコロナの感染は防げるのか。どんなに感染対策をしても、感染するときは感染する、と考えた方がよいのではないか。そんなはずはない、対策を講じれば「かかるはずがない」、「油断するからかかるのだ」と断言できるか。その考えは、やがて「コロナ感染者・コロナ患者」を敵視・蔑視、排斥しようとする差別思想に行きつくことはないか。現に、今、(対話場面ではない)屋外でもマスクを着用しない人たちを「白眼視」する風潮はないか。マスクをしない人は「人でなし」「人非人」「非国民」といった《マスク・ファシズム》の方が(コロナよりも)恐ろしい、その兆しが「ほの見える」昨今である、と私は思った。
(2020.9.29)