梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第5章・《噴水》

 この前は、私よりシロの足取りの方が力強かったが、今回は違う。いつもの散歩コースをあっという間に通り抜け、三時ピタリ、シロと私は駅前の広場に到着した。(いつもの所、いつもの所・・・)はやる気持ちをおさえて噴水のベンチを見ると、花形親子がにこやかな笑みを浮かべてたたずんでいた。
 「ごぶさたしました。待ちましたか?」
「いいえ、私たちも、今、ついたばかりですのよ」
「それはよかった。・・・。あのう、これ先日のお礼です。お口に合うかどうかわかりませんが・・・」
「まあ! 羽二重団子ですね。どうもありがとう。大好物ですのよ」
「そうでしたか。たぶん、そうじゃないかと思って、電話の後、買ってきました」
「それは、それは、御苦労をおかけしました。これ、日暮里でしか手にはいりませんものね」
私とユキが話している間に、シロはもうしっぽを振ってマリ子に飛びかかろうとする。
マリ子も、すかさず、用意してきたサラミを手に乗せて食べさせようとした。
「シロ、大好きなお嬢さんに会えてよかったね。サラミをいただいたら、また、散歩して来るかな?」
と、私が言うと、シロは一言「ワン」と応えた。
「すみません、お嬢さん、またお願いできますか?」
 マリ子は無言でうなずき、私が手渡すロープを受け取ると、シロを連れて立ち去った。
「ジョーさん、お座りになってください、また、お茶でも飲みましょう」
ユキは、ベンチを指差して勧めると、例の魔法瓶を取り出した。
「ありがとうございます、遠慮なく頂戴します」
「チーカマもありますよ!」
「これは、これは。何よりです。昔は、ずいぶんしつこい物を食べ歩きましたが、最近は、『あっさり・さっぱり』が体に合うようです」
「この前のお話、途中まででしたよね。続きを聞かせていただけますか?」
「はい、今日はそのつもりで参りました」
「まあ!うれしい!」
ユキが魔法瓶のキャップに注いでくれる酒を口にしながら、私は話し始めた。
「子ども時代、私は優等生になるよう強制されました。それが嫌で、高校までは我慢しましたが、大学二年の時、『家出』をしました。自由と独立、それが私の信条です。住み込みのアルバイトで法外な金を稼ぐことをおぼえました。異性との交遊も経験しました。ケンカの仲裁に入って失明寸前のケガもしました。大学を出ると就職もしました。結婚もしました。娘二人にも恵まれました。でも、何か満たされないのです。『去る者は追わず、来る者は拒まず』という処世術でこれまで生きてきましたが、それだけでは十分に満足できないのです。心のどこかで、『こんなはずではない』と、叫んでいるもう一人の自分がいるのです。まだ自由ではない、独立してはいない、そんな思いでいる時、私は、別の会社から引き抜かれました。フィリピンで仕事があるというのです。ちょうど日本はバブルの絶頂期で、毎日がお祭りのような雰囲気でした。私はフィリピンで、土地の売買の仕事を見つけました。日本から顧客を集め、フィリピンの土地を格安で斡旋するのです。月に三百万からの利益がありました。それを資金に老人ホームの建設も計画しましたが、これはバブルの崩壊で実現しませんでした。ずいぶん危ない目にも遭いました。仲間の密告で、根も葉もない犯罪をでっち上げられ、裁判にかけられたこともあります。クーデターに巻き込まれ、銃を手にしたことだってありました。」
 「いろいろと、御苦労されたんですね」
「いえ、そんなことはありません。みんな、自分で思ったことを実行しただけですから」
「奥様は?」
「娘二人を連れて、家を出ていきました。当然の結果だと思います。申し訳ないと思っています」
「今は、お一人で、お寂しくはありませんの?」
「寂しいと思うことはあります。でも、自分の信条を無理に通そうとしているのですから、それは、耐えなければならないでしょう」
「そうでしたか。ジョーさんのことがよくわかりました。ありがとうございました」
 ユキは、一瞬、遠い景色を見やるようにして、再び魔法瓶の酒をキャップに注いだ。
しばらくの間、ユキと私は沈黙し、公園の噴水を眺めていた。夕闇までにはまだ時間があったが、早くも照明灯が灯り、七色の光線が噴水を彩りはじめた。噴水の色が、オレンジからグリーンに変わったとき、ユキは意を決したように口を開いた。
「ジョーさん、あの子のこと、どう思われますか?」
「すてきなお嬢さんですね」
「見た目はそうかも知れませんが・・・、実は病気を持っているんです」
「・・・・?」
「心の病気といいますか、ほとんど話をしません」
 そう言えば、まだ娘の声をはっきりと聞いたことはなかった。
「結婚して子どもが一人いたんですが、今は別居して、私と暮らしています。どうしたもんでしょうかねえ」
「そうでしたか。あの時から、お二人のことが気になっていました」
「いつもは、私と二人きり、家の中で暮らしています。私がこんな身体ですから、身の回りのことを頼んでいますが、いつまでこんな生活が続けられることやら・・・」
ユキは溜息をついた。
「そうですか・・・。」
ユキの心根は読みとれるた。私に助けを求めていることは明らかだ。『来る者は拒まず』が、私の処世術なのだから、ここで一肌脱がないわけにはいかないだろう。でも、私に「心の病気」を治すことなんてできるだろうか。しかし、私は迷わなかった。
「もし、私でできることがあれば、何でもおっしゃってください」
ユキは、私の顔を見つめたまま、一瞬、凍りついた表情になったが、次第に目が潤んできた。
「よろしいんですの?本当に?」
「かまいませんよ。私は目下独身、勤めもしていませんので、時間はたっぷりありますから」
「どうか、マリ子の話し相手になってください。お願いいたします」
 ユキは、私を拝むように手を合わせた。
その時、マリ子とシロが戻ってきた。しかし、様子がおかしい。出かけたときとは反対に、シロがマリ子を引っ張っているのである。マリ子の表情は固く、押し殺すような声で何か呟いている。初めて聞くマリ子の声だった。
 「キジョ、キジョ、キジョー」、と言うように、私には聞こえた。何のことだろう。私は、つとめて平静を装うようにした。  
「シロ、お嬢さんと散歩できてよかったね。楽しかった?」
 しかし、その声はうわずり、我ながら愚問だと思った。シロは応えなかった。
マリ子は、無言のままシロのロープをその場に放り出すと、老婆の車椅子を押して、その場から立ち去ろうとした。老婆は祈るように目を閉じ、深く頭を垂れていた。
(2006.7.20)