梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・19・《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》

《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》
◎要約
【その他の配慮】
《安全な隠れ場所の重要性》
・自閉症児の場合も、回復するにつれて「安全の傘」は、徐々に「代理人」で代わりうるし、必要な回数も減少していく。(大事なことは子どもが安全だと感じていることである)
・ひき続き進歩していくと、子どもは自分だけの個人的な、安全な、仕切られた一隅、部屋(「自分の城」)をもつことが大切である。対人的なやりとりをする時間の合間には、そこにじっと引っ込んでおくことを許すことも必要である。
・そこには、専用のおもちゃ、等身大の鏡(自分の鏡像との相互交渉が行える)などを置いておくよよい。
《「自分の城」の中で自閉症児は何をしているか》
・自閉症児の場合、誰からも見られていないと信じてリラックスしている時には、多くの技能を独力で練習する。本を読む、歌を歌う、絵を描く、音楽を聴く、おもちゃで遊ぶ、など。
《接触を欲する呼び声には必ずすぐに答えること》
・子どもはひきこもろうとする時でも、一方ではそれと同時に、離れたところにいて関心をもってくれる人の存在と、その人からの安心させるような信号を受けることを欲している。子どもがそのような接触を欲している場合には、すかさずそれを感じとるようにすることと、その時それを拒否(無視)しないことが重要である。
・自閉症児の場合(でも)、接触のための呼び声が発せられるたびに必ず答えてやることが非常に重要である。
《歌うことがいかに子どもを安心させるか》
・母親が歌を歌うことは、子どもを安心させ絆を強める。
《迎えてくれる人がいると安心する》
・学校や出先から帰ってきた時、何らかの出迎えを受けたがる。「返答」「おやつ」などで出迎え、子どもを安心させることが大切である。また、家事が混沌としてスケジュールが一定でないと、子どもは不安になる。予測可能な生活は、自閉症児を安心させる。


《感想》
ここまで述べられていること、【その他の配慮】は、すべて自閉症児の「不安」を取り除き、安心感を育てることによって、積極的な接近・探索・学習行動を促進(好奇心・意欲)を高めようとする配慮事項である。「抱きしめ療法」によって、母子の絆が回復・確立した後でも、子どもは、ちょっとしたきっかけで「後戻り」してしまう。それを防ぐために、あるいは「再回復」をめざすために、環境的な安全基地(「自分の城」)の確保や対人的な配慮(「返事」「歌による呼びかけ」「出迎え」など)が必要であり、決して油断してはならない、細心の注意が必要であることがわかった。
以後は、いよいよ「どのように教育していけばいいか」(生活指導・技術教育)という段階に入る。


◎要約
【自立性と自発性を育てる】
《一緒にいることとひとりにすることのバランス》
・手をかけてかばってやるという面と、自分ひとりで探索したり練習したりする活動を許すとか励ますという面の釣り合いをどのへんでとるべきか、ということはまことにむずかしい。
・あまり気をつかってかばいすぎた子どもの場合には、何もかも親や教師のほうから先に手を出してやってもらえるものと思う態度ができてしまいやすい。(衣服・靴の着脱など)・自閉症児の場合、まったく依存的で自発性に欠けているため、「自分から進んでやることを教える」ことが、格別重要な意味をもってくる。忘れてはならないのは、自閉症児はすべて病的に臆病で進取の気性に乏しいので、自分から進んでやるという方向に前進することは、子どもにとってたいへん勇気のいることだ、ということである。
《対人関係の中の活動に参加する手助けを》
・子どもの安心感を深めることと「並行」して、人からの教示を受け入れることや、対人的状況の中で行われるさまざまな活動(探索行動)に参加させようとする時、その成否は「対人的に好ましい状況にあるか」「家という安全基地をもっているか」にかかっている。・長い間、自閉的状態におかれた子どもの場合には、母子の絆を回復するだけでは不十分で、教示を受け入れられるように、また活動に参加することを通して学べるように、手助けをしてやる必要がある。(情緒面の治療と並行して探索行動を奨励することが大切であることは間違いない)
・例えば「水泳教室」に参加させる場合:いちばんよいのは、両親と一緒にやってみることであるが、問題は、そのタイミングを誤らないことである。子ども自身が示すちょっとした志向動作を手がかりにするのがいちばんだが、それを見逃さない知覚力と敏捷な反応が要求される。
《小さな課題でもやりとげた喜びから自発性をとりもどす》
・自閉症児(者)は「その気になりきれなかった」という理由で、自発性を失っていくのかもしれない。マーチン・セリグマンの研究書「学習された無力感」の見解によれば、それは、うつ病、不安神経症、一部の分裂病患者、とくに長期入院患者に「典型的」だという。彼はそういう患者に、長年、人にやってもらっていたような仕事(ベッドメーキングなど)をやってみようと強く勧める(「段階的課題」療法)ことによって、自発性をとりもどさせる方法を述べている。この方法(患者の意志に反した、強制的なものだが)を一段一段進めていくと、患者はほどよく自発性を回復し、そのほうがずっと気分がよいと感じるという。ウォールドン博士のやり方も、子どもに何かをやりとげる喜びを経験させ、そのことを通して、長いあいだ臆して手を出せないでいた課題に自分から取り組もうとする勇気を育てている。
《あくまで絆の再建を基本に》
・ウェルチ博士によれば、自発性というものは対人面でも探索面でも、まったく刺激を与えなくてもひとりでに回復してくるそうだ。
・しかし、それだけでは無理な場合には、格別な特別な援助が必要になるだろう。あくまでも絆の再建を基本におき、子どもの不安が高まらないように配慮する必要がある。
《暖かい暴力が効果をあげることもあるが》
・叩くことやその他の体罰を組織的に加える行動療法は、無効で残酷な対症療法である。【「わるいいたずら」・破壊・攻撃としつけの必要性】
《わるいいたずらの許容範囲を見直す》
・「わるいいたずら」ということは「子どもの行動」だけを言っているのではない。「大人にとって不都合」「イライラさせられて耐えがたい」という意味を含んでいる。本当は困ったことではなく、自然なことであり、場合によっては子どもの「権利」であったりする。
・子どもには「探索」する権利がある。「動き回る」権利がある。「話す」権利もある。(ただし、食事中は動き回ってはいけない。人が話している時は耳を耳を傾けなければいけない)自閉症児の親も、子どもの立場にたって考えてみる必要がある。「このことは本当に禁止しなければいけないことだろうか」と自問しなくてはいけない。
・自閉症児の場合、「わるいいたずら」は、もっと幼い子どもなら許せる種類の行動である。(トイレの水で遊ぶ、飲むなど)探索行動をしそびれてきた子どもの、それを取り戻したいというやむにやまれぬ衝動を感じているのかもしれない。ところが「こんなに大きいのにいつまでも子どもっぽいいたずらをする」とか「たいへん困る」とか「不衛生である」とかいう理由で禁止されてしまう。
《わるいいたずらに代わる場を与える》(子どもの注意を他に向けさせる)
・水遊びをしたがる場合は、浴室、プール、海水浴で一緒に遊ぶのがよい。プール(水に浸かること)は、精神高揚効果、緊張をとる効果がある。
・尿や便をいじって遊ぶ場合は、いやだという気持ちを乗りこえて、大便などのもつ不快な性質がわかるようになるのに、ある(短い)期間が必要だということを認めなくてはいけない。それは子どもにとって必要な「学習」である。自閉症児の場合、刺激に反応することを覚えにくいため、長い時間が必要になるかもしれない。
・電灯のスイッチをつけたり消したりすることも、長く続くことがある。正常な子どもの場合は短期間ですむが、自閉症児の場合は、長い期間にわたってくり返さなければならないということであろう。
《どうしてもいけないことをわからせる》
・「それが親にはどうしても我慢ができないことがある」ということをわからせることも、必要不可欠である。「言って聞かせる」「怒って叱る」などの方法で「一貫」した禁止をすることが大切である。水遊び、泥遊び、便遊び、食べ物を散らかすなど、子どもじみた行動(悪癖)は「無数」にあるが、それをくり返そうとする衝動は、結局は病気の一部であり、正しい取り扱い(一貫した禁止・鉄の掟)をして、子どもが情緒的に進歩してくると、「ひとりでに」消えて行くものである。
《わるいいたずらへの対処法は「よい母」を見習う》
・「それはダメよ」と言って聞かせるだけでよい場合もある。
・「そうすると他の子どものすることを妨げたり、傷つけたりすることになる」と言って聞かせるとわかる自閉症児もいる。
・悪い癖がつき始めようとしている時、目ざとく見つけて、つぼみのうちに摘み取ることが大切である。
・「わるいいたずら」の原因が「人の注意を惹こう」とする手段である場合がある。そのような対人関係づけをしようとしている動きを「認めて」、積極的な対人行動(抱きしめ等)で応えることがたいへん重要である。
・「わるいいたずら」の理由として、極度の疲労、病気のはじまりがもとになっていることがある。そういう場合は、安静が最良の解決法になる。子どもが抵抗しても、それを無視して必要な手当をすることが最善の方法である。
・すべての形の「わるいいたずら」に、子どもは何を望んでいるか、どういう衝動に駆られているかを、直観的に不思議なほどの感覚で察し、効果的に対応できる(特殊な才能をもった)母親もいる。そうした「優秀な親」のやり方を観察し、学ぶことが大切である。《爆発は相手または何かを強く望んでいる表れのこともある》
・破壊的な行動がひどく激しく爆発するのは、子どもが何かの理由で強い「欲求不満」を感じている時の場合のこともある。(人に近づいて話をしたいが怖くてできない、ことばが話せないためにできない等)
・子どもがいつ、ひとりで放っておいてほしいと思っているか、相手がほしいと思っているかを見ぬくことが大切だが、難しい。
・「わるいいたずら」は、敵意に満ちた攻撃的になることもある。それを解決した理想的な事例:訪問していた家から帰途に就こうとした時、8歳の息子が「いやだ」と言い出して、ぐずっていた。その子は帰ろうという「命令」にいら立って、父親の皮膚をいやというほど強くつねり、顔に激怒の表情をうかべながら「それがイタイ」と言った。父親はただごく平静な声で「そうだねジョン、それはイタかった。さあ言われたとおりにしよう」と言った。それですべてのトラブルが一挙に解消した。
《寛容と統制の均衡のとれたしつけ》
・現代の都市社会は、変化する状況に適応しきれず、子育てにあたってのしつけ方が標準化されていない。家庭内の決まりををしっかり守ること、正直、責任感、善良な市民としての感覚等を植えつけることは必要だが、そういう昔からのしつけや、新しいしつけの必要性については無頓着な親が多い。しかし、寛容と統制の均衡のとれたしつけを、見事にやっている親もいる。自閉症児の親にとっていちばんよいのは、そういう親を見習うことではないだろうか。


《感想》
 ここでは、自閉症児を「どのように教育していけばいいか」(生活指導・技術教育)についての、基本的な方針が述べられている。まず、その1は「自立性と自発性を育てる」ことである。ウェルチ博士は、母子の絆が確立すれば自発性はおのずと回復してくる、という考えだが、そのことを前提にして、これまでの養育態度に問題はなかったかを見直す(反省する)ことも必要であろう。とりわけ、親の「過保護」「過干渉」が、子どもの自発性を妨げている場合が多いと思われる。〈あまり気をつかってかばいすぎた子どもの場合には、何もかも親や教師のほうから先に手を出してやってもらえるものと思う態度ができてしまいやすい。(衣服・靴の着脱など)・自閉症児の場合、まったく依存的で自発性に欠けているため、「自分から進んでやることを教える」ことが、格別重要な意味をもってくる。忘れてはならないのは、自閉症児はすべて病的に臆病で進取の気性に乏しいので、自分から進んでやるという方向に前進することは、子どもにとってたいへん勇気のいることだ、ということである〉という一節には、思いあたる両親・教師が多くいるはずである。その結果、子どもの心中は「学習された無力感」でいっぱいになり「その気になりきれぬまま」無為な時間を過ごしてしまう危険はないか。親の「過保護」「過干渉」は、うつ病、不安神経症、一部の分裂病患者、が長期入院している病院の「介護」と「瓜二つ」であることを肝銘しなければならない、と私は強く感じた。また、その2は「望ましくない行動」(わるいいたずら、破壊、攻撃性)を軽減・消失させる、ということである。それらの行動はこどもによって「千差万別」だが、どの行動にも共通している対処法は、「子どもは本当は何を望んでいるのか、どういう衝動に駆られているのか」を直観的に察し、その場その場に応じた対応を「創造」することだ、と私は思う。そのようなことができる人は少ない。しかし、そのような人に出会う努力をすれば(情報収集・文献研修・親の会への参加等々)、必ず見つかるに違いない。そうした先達から学び、試行錯誤することが両親の(子どもに対する)責務ではないか、とも思った。(2013.12.6)