梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・87

■言語訓練(教育的態度)
【要約】
 人格化と同一視は、“教育的態度”によってチェックされている。これは、子どもの現在達している水準に適合する仕方で行われる発達促進のための言語訓練の基礎となっている。
《言語訓練の様式》
 人間以外の生活体では、母子関係は純粋に生得的な親和関係の実現にとどまり、伝達能力の促進・発達には結びついていかないが、人間の母親の言語的な働きかけには教育的態度がうかがわれ、これは1歳児に対する母親の用語に反影される。母親は子どもの語彙の拡大化とともに般用の縮小化をめざすような働きかけをする。子どもが食べ物一般をマンマとよぶような段階に達したならば、ゴハンとかパンとかいう語をそれぞれ適切な対象に結びつけさせるよう教えこむ。それは、かなり組織的であり、子どもの現在の能力によく適合している。 
 この方法は概念の形成にとってきわめて重要な意義をもつ。名は認知世界の構造を子どもに把握させる重要な手びきとなる。母親は成人の世界で慣用するままの概念体系に従って命名することはほとんどないが、そのような方向をもつような命名をしているということはできる。この問題についてブラウン(Brown,1958)の所説を要約する。
 一つの対象あるいは事象に対しては多くの名がある。母親はこのうちから一つの名を選択するさい、慣用に近い基準に従っている場合もあるが、一方では子どもの発達水準という基準も織り込まれる。この二つの基準の折衷から実際の訓練基準がつくられ、これによって有効かつ能率的な概念化が進められる。ブラウンはそのような選択基準としてつぎの三つをあげる。
⑴ 短い名であること
⑵ 使用頻度の高い名であること
⑶ 子どもにとって有用な、あるいは、子どもの行動や関心によく適合した名であること この結果として、母親は子どもの言語習得を促す訓練を、具象から抽象へ、あるいは下位概念から上位概念への方向に進めるとは限らない。
“語彙が具体的なものから抽象的なものへと作られていくことがつねに真だとはいえない。魚は鯉や鮭より前に、家はバンガローやマンションより前に、車はシボレーやキャデラックより前に、それぞれ学習される。・・・具体的な語彙は子どもの目的が魚の種類や自動車の形を分化させる年齢に達するまで待たねばならない”(Brown,1958)。
 幼児に与えられる語は、具体的なものから抽象的なものへと漸次移行するのではなく、子どもにとっての“日常有用性”の基準に強く規定されている。
 この期の子どもに対する命名には、日常有用性と名の単純さと使用頻度が高いことがおもな選択基準となる。したがって、言語活動と概念活動との間の本格的な相互流通ないし対応性を形成するような言語訓練は行われない。 
 これらの教育的態度の現れ方は、個々の文化に規定されており、言語の差異に従って大なり小なりの差異があるだろうが、世界のおそらくすべての文化における母親の教育的態度ならびにそれに基づく言語訓練の型にはかなり共通の方式がふくまれているように思われる。このことは、子どもが幼いほど顕著であろう。


【感想】
 ここでは育児者・母親が子どもにどのような態度(方法)で「ことばを教えているか」について述べられており、大いに参考になった。要するに、はじめは事物や事象を「おおざっぱに」(抽象的に上位概念で)教え、事物や事象の区別ができるようになってきた段階で、具体的な下位概念の語彙を教えるということである。たとえば、ゴハンやパンの前に「マンマ」、お茶やジュースの前に「オブ」など。
 前述したように、私の知る「自閉症児」(1歳)は、「マンマ食べてるの?」という問いかけに「カボチャ」と答えた。また、飲み物を欲しい時「ニンジンジュース!」と言って要求した。なぜ「マンマ」ではなく「カボチャ」なのか、「オブ」ではなく「ニンジン」「ジュース」なのか。その段階では、ともかくも、ことばで「やりとり」することができていた。育児者は、どのようなことを考え、どのような態度で「言語訓練」をしたのだろうか。少なくとも、その方法は「世界共通」の方式から外れていたように思われる。
 マンマよりはカボチャの方が、オブよりはニンジンジュースの方が、正確で、的確に事物を表している、だから認識としては高度であると、育児者が考えていたのではないか。しかし、結果としてはアナログ的な「会話能力」の発達が滞り、デジタル的な「やりとり」でなければ通じない(気持ちのやりとりがスムーズにできない)という事態を招くことにならないか。きわめて興味深く、検証しなければならない問題だと、私は思う。 
(2018.9.26)