梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・21・《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》

《第9章 指導法の実際・・・両親と保育者のために》
◎要約
【遊び心の重要性】
《過度にまじめな環境はむしろ病的である》
・学校でも家庭でも、まじめすぎる緊張の高い雰囲気は避ける必要がある。
・現代の社会全体が能率主義と競争主義の方向へ動いており、その中で人々に共通している意識は「まじめさ」であり、もっと多くのことをもっと能率よく処理しようということで頭がいっぱいである。子どもにも大人にも心なごむ遊びの心が失われている。遊びは、みんなの気持ちをリラックスさせてくれるばかりか、計り知れないほどの教育的意義をもつ。さまざまな技能、感受性・協力性・責任感などが養われる。
・現代社会が「原始社会」よりも優れているという考えは不遜である。陽気さに欠けていること、まじめすぎること、能率志向の傾向の方が「例外的」であり「病的」である。
《自閉症児には遊び的雰囲気がより必要》
・遊びは、自閉症児が経験しそびれてきた最も重要なことのひとつである。
・子ども側には対人的回避傾向があり、親の方には気持ちが通じず気が沈んでいるので、遊び的相互作用をスタートさせるのが極めてむずかしい。
・そういう状況を変えていくのには、子どもの恐れを減らすための各種の方法(第6章)をまず適用してみるのがよい。
《まず親が、遊びの心を養う練習を》
・大人の方が遊びをリードしなければならない。
・まじめすぎの両親の多くは、生まれつき遊び心が乏しいのではなく、陽気さの発達が不十分だったか、抑えられたためだと思う・
・もし、子どもからの遊び的歩み寄りが見られたら「すかさずそれをキャッチ」して遊び的気分に入るようにする。なんらかの接触が保てる場合はいつでもそうするとよい。自閉症児の場合、乳幼児が喜ぶようなやりとり遊びによく反応する。(そっとつまむ、リズミカルに手を叩く、くすぐりっこなど)
《即興のゲームによる「会話」の例》
・積み木遊びをしていた6歳の男児が、「自分の仕事」(積み木遊び)が一段落するたびに、その作品を眺め満足そうにしていたが、最後には静かに、リズミカルに手を叩いた。その様子を観察していた治療者(エリザベス・ティンバーゲン博士)は、〈すぐに、それに続いて私が代わって同じリズムで同じように拍手をしてみました。その子は私の方を振り向き、一瞬さっと私を見て、それからまた前に向き直って、私の拍手に応えて、また手を叩き始めました。そういう「対話」がしばらく続きました。それから私が拍手のしかたを少し変えてみたところ、嬉しいことにこどものほうもそっくりそれをまねてくれました。これもしばらく続き、こんどは「子どものほうが」リズムを新しいものに変えてきましたので、私もその「指示」に従いました。それから子どもはそういう「会話」を続けながら、部屋の中をうろうろ歩き始め、しばらくあてもなくさまよったあと、急に気が変わったように「偶然」に私の近くにきて、腹ばいになりました。子どもの足が私に一番近い位置になっており、ちょうど私の手の届くところにきていました。そこで、私が同じリズムで子どもの足をパタパタ叩いてみますと、それが子どもを喜ばせたようでした。子どもは、それに「答えて」手を叩きながら少し私の方ににじり寄ってきました。子どもがだんだん近くに寄ってくるので、手を伸ばすと子どもの脚や尻に私の手が届き、おしまいには背中をくすぐることもできました。子どもは喜んで身をくねらせながら、さらに近くにすり寄ってきました〉。
《子どもは、おどけの上手な大人たちが好き》
・おどけの上手なある母親が、離乳食をたべさせようとしたとき、スプーンの食べ物を「中空」にとめ、おどけた顔をして子どもの顔をのぞく、というゲームをしかけた。赤ちゃんはそれに反応して笑った。それから、子どもがじれてしまう前に普通通り食べさせた。次に、母親が子どもの口にスプーンを近づけると、今度は子どもの方が突然口を閉じ、おもしろがって「どうだとばかり」の笑顔をうかべて親を驚かせ、それから食べたという。
・ごく幼い赤ちゃんでもそういうことが大好きで、自分からも遊びをつくりだす。
・「一緒に笑う」ことは、人間という種にとって最も効果的で、満足のいく対人的な絆づくり機構である。
・子どもは、両親その他の相手がたくさんの「おどけ方」を心得ていて、それをくりかえして遊んでほしいと思っている。
・明るい家庭では、家族のすべてがそれぞれ独特の役割をもって冗談に加わる。父親は母親とは違ったおどけ方をする。子どもたちは子ども独自の遊びとおどけの文化をもっている。高次の技能の多くは、そのような関係の中で発達する。
・正常児にとって「教育的」価値をもつことは、情緒障害児にとっては「治療的」価値をもつ。
《家庭内の「実地見習い」の重要性》
・男児は年長者の「手仕事」を観察する。女児は、配膳・掃除・皿洗いなどの「お手伝い」をやりたがる。
・家庭の中にそのような「実地見習い」状況をつくり出すことは、大きな教育的価値をもつ。そのことが、観察学習や練習を促進し、対人的絆づくりや協力性を促進するからである。
《「進む」と「退く」のバランスをとりながら》
・子どもの行動を「持続的に」観察(モニター)し、子どもが「ひきこもりたい」というそぶりをみせたら、(こちらも)「一歩後退する」ことが、遊び的相互反応の《根本原則》である。(これは「綱渡り的進行」である)
・うまくいったやりとりは、くり返し行う覚悟が必要である。親があきあきしてしまうことがあるが、子どもは「儀式的くりかえし」による安心感を好む。新しいやりとりを加えたり、古いやりとりに変化を与える、ことで新鮮さが増す。時には、子どもの方から、追加や修正を要求することもある。
《自閉症児の治療には持久力が必要である》
・よほど早い時期に発見された場合にしか、急速な変化は期待できない。
・「持久力をもつ」ということは、ひとたび治療の「過程」を始めたら最後、決して「かってにやめてはいけない」ということである。途中でやめることは著しい害を与えることもある。


【結論】
・これまで述べてきたことの多くは、自閉症児の新しい治療法をあみ出そうとして多くの仲間たちが模索している段階の試みであり、試験的なものである。
・「専門家たち」は自閉症について、多くのことを権威者のように書くことによって、しろうとの人々に対して、自分たちは実際以上に知識と理解をもっているかの印象をあたえてきたことは、否めない事実である。
・(しろうとの)両親や介護者や教師にも、自閉症の理解・治療法の探求に参加していただきたい。
・自閉症および関連の障害は、あまりにもさまざまで複雑である。新しい治療法を開発するには、専門家だけに完全に任せてしまうべきではなく、すべての関係者の協力が必要である。


《感想》
 以上で著者・ティンバーゲン夫妻の「論述」は終了する。しかし、この「自閉症治療学」は、人口膾炙されていない。なぜだろうか。私の独断・偏見によれば、まず第一に、著者の一人であるニコ・ティンバーゲン博士は「動物行動学者」であって、自閉症の「専門家」ではない、ということであろう。「専門家」に比べて、著者の知識・経験は乏しく、信じるに価しないといった「権威主義」が児童精神医学界にはびこっているためではないだろうか。「初手から相手にしない」(門前払い)といった風潮はないか。また第二に、その理論自体が、「環境要因による情緒障害」という考えに立っているため、「先天的な脳の器質的な障害」という立場と真っ向から対立する。今や、全世界の「専門家」は後者であろうが、その論拠は明確に示されていない。その「要因論」は、まさに「諸説紛々」といったありさまで、いずれも「推論」の域を出ていない。(一方、「環境要因による情緒障害」説もまた、推論に近いが、少なくない《改善例》がその論拠になっている、と私は思う)第三に、その「環境要因」の中には、両親の「育児法」が含まれており、それが現代社会の「男女同権主義」(ジェンダー・フリー)と真っ向から対立する。事実、両親や本人までが「先天的な脳の器質的障害」と断定されることによって、「不当な差別」から解放されたと感じている。したがって、「自閉症は親の育て方が原因ではない」ということを、まずア・プリオリに断定することこそが、「専門家」としての立場を守ることになるのではないだろうか。しかし、本書を読めば一目瞭然のことだが、著者・ティンバーゲン夫妻は、「自閉症児(者)」を差別していない。その両親を「冷蔵庫のような親」などと言って非難してもいない。むしろ、(傷ついた)「両親のために」指導の実際を説き、一日も早く「回復」できるように励ましているのだから。中でも、エリザベス・ティンバーゲン博士の《即興のゲームによる「会話」の例》(の一節)は、(自閉症児と接する)臨床家の誰もが見習わなければならない(稀有な)「お手本」である、と私は思った。また、著者・ティンバーゲン夫妻は、自説が、つねに「完璧」であり「正しい」とは《断定》していない。すべてが「仮説」(推論)であり「検証」が必要であることを強調されている。だとすれば、その説に(「専門家たち」は)誠実に耳を傾け、「反証」を提示することが(科学者の)「倫理」というものではなかろうか。いずれにせよ、感情論が入り混じった非合理的な論議は「不毛」であり、肝心の「自閉症児」を救うこととは無縁であることは明らかである。次章からは、自閉症が「環境要因による情緒障害」であることの論拠となる「事例」が紹介されている。期待をもって読み進めたい。(2013.12.8)