生活詩人・山村暮鳥・《大正時代・3》
この民衆詩派の詩人達は、当時のデモクラシーの社会的風潮にやや安易に乗りかかって、平板な形で民衆への共感、正義感を押しだしていったために詩としての緊迫感を欠き、冗漫で抽象的な感激に堕したものが少なくなかった。しかし彼等が生活を真剣にとりあげてうたおうとする態度や詩の口語化を促進した功績は見のがすことはできないのである。
民衆詩派とほぼ併行して、雑誌「白樺」に拠る人道主義の詩人達が民衆詩派の作品が粗製であったのに対して多くのすぐれた作品を発表していた。このグループには千家元麿がおり、生活者の眼において庶民生活に触れ、自主性のあたたかさを賛美した。そしてこの年代には福士幸次郎もこれに近い傾向をもつものであった。
やがてこのような動きの中に萩原朔太郎の詩集『月に吠える』(大正6年)の出現に及んで、口語自由詩が文語自由詩をはじめて凌駕し、それは単に伝統性からの脱却にとどまらず、近代詩の完全な実現を意味したのである。
朔太郎は、はじめ室生犀星や大手拓次とともに白秋の主宰した『朱楽(ザムボア)』『ARS(アルス)』『地上巡礼』などに作品をのせていたが、ついで犀星や山村暮鳥と雑誌『感情』を発行した。この結びつきは思想や詩の創作態度が共通していたためではなく、多分に友情的なものであったが、当時の詩壇に一つの系統となった。その他大正期の詩人として日夏耿之介、佐藤春夫等がいた。
このようにして大正期の詩壇は、特定の主義主張や傾向流派をふまえて集団運動するよりもどちらかといえば、おのがじし個人として伸びやかに自己の才能につちかっていく傾向が強く、その各個の才能の開花によって近代詩としての成熟をとげた。
(豊多摩高等学校文芸部研究レポート・1962.10.10)
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