梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

生活詩人・山村暮鳥・《大正時代・2》

梨野礫

明治40年9月号の雑誌「詩人」に川路柳虹が「廃塚(はきだめ)」ほか三篇の口語詩を発表した。これは薄田泣菫、蒲原有明らの古典的、形式的な美学にあきたらぬ年少の詩人をはじめとして、既成詩壇にも大きな反響を呼んだ。そして今まで雅語を縦横に駆使して古典的な調和と完成の象徴美を誇ってきた泣菫も、後に詩における口語の機能を承認し、有明も降伏といったような形をとらねばならなかった。このことは19世紀のヨーロッパを覆った合理主義、実証主義、自然主義の詩における影響であって一つの大きな詩的変革であった。つまり、柳虹自身がどの程度の意識していたかわからないが、明治30年代の初頭における島崎藤村や土井晩翠が、その背後に和歌あるいは漢詩的性格を負っていたことは確かだが、30年代の中後期を通じさらに大正期に及ぶ浪漫詩、象徴詩の場合にも免れがたかったのは、この種の伝統が絶えず彼等の背後にあったということである。このことは単に詩の表現上の問題ばかりでなく、発想法の根柢において、和歌や漢詩が日々の生活にたいするいわば一種の慰安として、あるいは道楽としてあくまでも余技的な見方から完全に脱し切っていなかった。このように詩が生活の趣味化の意味にとどまるかぎり、それが近代詩として脱皮いくことは容易ではなかった。何故ならば自然主義下における西洋の詩精神とは、このような趣味性とは全く異なり、むしろそれは嫌悪して一切の風俗的なものに対して、迫逆するとこrとにあった。そしてそれは生活的、日常的な現実の作品を題材として取り入れるには、それにふさわしい詩語がもとめられるのであって、その生活意識が必然的に口語使用に向かわせたのである。従ってこのような考えから見れば、北原白秋や三木露風らの感覚と官能と情調とを、たくみな詩語の駆使によって形象化した彼等の文語自由詩は真の近代詩とは認め得ないものであった。そしてこのような詩の口語化は、白鳥省吾、福田正夫らのいわゆる民衆詩派と呼ばれる詩人達に引きつがれた。

(豊多摩高等学校文芸部研究レポート・1962.10.10)

大正時代・《2》 - 生活詩人 山村暮鳥

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