梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

戦後文学の思想と方法・織田作之助論・《10》

梨野礫

織田は、戦後間もなく発表した「表彰」(『文芸春秋』昭和20年12月号)という作品で次のように書いている。

 〈伊三郎が消防部の副班長に任命された頃、お島は警防団から表彰された。表彰式の日お島は名前を呼ばれると、居並ぶ団員の一人一人にペコペコ頭を下げながら団長の前へ出て行ったが、その時列の中で赫くなってかしこまってゐた五十歳の伊三郎は、いきなりお島に頭を下げられると、はっと手を挙げて下手な敬礼をした。
 ところが、その表彰状はそれから十日目に伊三郎の家と一緒に焼けてしまった。焼け出された二人は、鳥取行の汽車に乗った。妾の家に頼って行かうと伊三郎が言ひ出したのである。
 お島は汽車の中で、東條が阿呆な戦争をしたばっかしにわては妾の厄介にならならんと口走ってゐたが、やがて疲れ切ってコクリコクリ居眠ってしまったお島のやつれ果てた顔を見ると、伊三郎は鳥取まで行く気が変ってしまった。
 伊三郎は松太郎の生みの母親の兄が石川縣で百姓をしてゐることを想ひ出し、どこの駅で乗り換えれば石川へ行けるのかと隣の座席の人を摑へて、くどくど遠い耳を傾けた。お島はよだれを流して、かすかな鼾を立ててゐた。〉(「表彰」・織田作之助・『織田作之助選集』・Ⅱ・中央公論社・164頁)
 織田が戦後をどのようなものとして受けとめたか、それはこの伊三郎という男の姿勢に象徴的に表現されている。すなわち織田はその時はじめて自己の進むべき方向を発見しかつ信じることができたのではあるまいか。織田は「世相」において、そのことをより明確に語っている。
 〈十銭芸者の話も千日前の殺人事件の話も阿部定の話も、書けばありし日を偲ぶよすがとなるといふものの、今日の世相と余りにかけ離れた時代感覚の食ひ違ひは如何ともし難く、世相の哀しさを忘れて昔の夢を追ふよりも、まず書くべきは世相ではあるまいか。〉(「世相」・前出・218頁) 
 織田がいう「時代感覚の食ひ違ひ」とは、裏をかえせば彼のこれまでの方法もしくは「語り口」に対する挫折感に他ならず、織田は戦後において、もはや井原西鶴の方法を武器とした時代が終わったことを思い知らされた。織田は戦後という状況を前にしてみずからの方法の転換をはからねばならなかった。そしてその時、彼は負い目としてあった自己の知識人性に真っ向から立ち向かったのではなかったか。そのことは、新しい方法の模索の過程としてある「世相」「郷愁」という作品が、状況への迎合ではなく、状況との対決としてあったことを思えば、明らかである。Mおのであったのだろうか
 「いや、今日の世相が俺の小説の真似をしてゐるのだ」(「世相」)という言葉は、正に世相的な意味においては、織田の「戦後に対する堂々たる宣言であり、同時に文学的な意味においては、描こうとして決して描き得ない「状況」と対決する一人の作家の宿命的な悲劇の象徴でなくて何であろう。

(1967年3月)

織田作之助論・《10》 : 戦後文学の思想と方法