戦後文学の思想と方法・織田作之助論・《6》
資本主義社会が発展していく中で、かつての封建中流階級は「庶民」として生き抜くために、他ならぬ「庶民」を徹底的にだましつづける他はなかった。いわゆる日本的なブルジョア合理主義とは、伝統的な仏教・儒教道徳としての「勧善懲悪」思想の裏返しとしてあるのであり、それゆえ両者における価値体系は本質的には何ら変わることなく、「庶民」としての成金はその封建道徳を逆用することによって庶民の上にたつことができるのだ。だがそのことによって正に彼らの存在基盤は失われ、彼らの生活意識は動揺する。「金がっても苦しい」とはそのことである。成金の野心が名誉と結びつくのは、彼らの精神的安定は金によってではなく、名誉によってはじめて得られるからに他ならない。ここでいう名誉とは、もしくはブルジョア合理主義とは、ヨーロッパにおける近代的なそれとは、本質的に意味を異にする。すなわちヨーロッパにおけるそれは、明らかに近代的なブルジョア・ヒューマニズムもしくはブルジョア・デモクラシー、つまり「自由の思想」によって裏打ちされ正当づけられているのに反して、日本における合理主義は、正に金銭至上主義的な物質主義以外の何物でもなく、それを背後から支える精神的基盤は、旧態依然とした「勧善懲悪」的な《醇風美俗》の意識でしかあり得なかった。だがそれはひとつの矛盾である。日本の物質的合理主義と精神主義的道徳(それが成金が得ようとする名誉の基準になっていることはいまでもない)とは真っ向から対立するものとしてある。「勧善懲悪」の主人公、川那子丹造の悲劇性(金を得ることはできたが、名誉を得ることはできなかった)は、正にそのような矛盾の典型的表現でなくて何であろう。
(1967年3月)
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