梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

戦後文学の思想と方法・織田作之助論・《6》

梨野礫

 資本主義社会が発展していく中で、かつての封建中流階級は「庶民」として生き抜くために、他ならぬ「庶民」を徹底的にだましつづける他はなかった。いわゆる日本的なブルジョア合理主義とは、伝統的な仏教・儒教道徳としての「勧善懲悪」思想の裏返しとしてあるのであり、それゆえ両者における価値体系は本質的には何ら変わることなく、「庶民」としての成金はその封建道徳を逆用することによって庶民の上にたつことができるのだ。だがそのことによって正に彼らの存在基盤は失われ、彼らの生活意識は動揺する。「金がっても苦しい」とはそのことである。成金の野心が名誉と結びつくのは、彼らの精神的安定は金によってではなく、名誉によってはじめて得られるからに他ならない。ここでいう名誉とは、もしくはブルジョア合理主義とは、ヨーロッパにおける近代的なそれとは、本質的に意味を異にする。すなわちヨーロッパにおけるそれは、明らかに近代的なブルジョア・ヒューマニズムもしくはブルジョア・デモクラシー、つまり「自由の思想」によって裏打ちされ正当づけられているのに反して、日本における合理主義は、正に金銭至上主義的な物質主義以外の何物でもなく、それを背後から支える精神的基盤は、旧態依然とした「勧善懲悪」的な《醇風美俗》の意識でしかあり得なかった。だがそれはひとつの矛盾である。日本の物質的合理主義と精神主義的道徳(それが成金が得ようとする名誉の基準になっていることはいまでもない)とは真っ向から対立するものとしてある。「勧善懲悪」の主人公、川那子丹造の悲劇性(金を得ることはできたが、名誉を得ることはできなかった)は、正にそのような矛盾の典型的表現でなくて何であろう。

 またそのような典型的表現を支える、織田の方法意識は、つまり「勧善懲悪」が小説として提起している小説論は次のような点にあるのではなかろうか。すなわち、物語においては対立者として登場する川那子と古座谷という二人の人物は、現実においては同一人物として表裏一体をなすものであるということ。つまり織田は、一人の人物をその生活者主体(「実行力」に富んだ川那子)と精神的主体(庶民の生活意識を的確につかむことによってだましつづける古座谷)において分析し、かつ両者を対立的にとらえることによって、一人の人間を総体的に表現しようとするリアリズムを試みているのだ。同時に彼はその中に「スキャンダル記事」を挿入させることによって、すなわち作家主体としての自己をそれにからませることによって、小説とは何か、あるいは書くとはどういうことかという問題を追求していることはいうまでもない。そのことをひとくちでいえば、織田はあくまでストーリー・テラー(物語作家)として読み手をだましながら自己表現を追求しているのであって、それはいわゆる「私小説」的自己表現によって読者をだましつづけている、自己合理化的なフィクショナリストとしての私小説作家に対する芸術的なたたかいの記録としてこの作品はあるということではなかろうか。そのたたかいのありようは、戦後の「世相」「競馬」などの作品に集約されてあらわれると思われるが、それについては後述する。

(1967年3月)

織田作之助論・《6》 : 戦後文学の思想と方法