戦後文学の思想と方法・序・「憂鬱なる党派」(高橋和巳)覚書
この世の崩壊を目撃し、なおかつ不幸にも生きのびた者の、とるべき道は三つある。
その一つは、崩壊したそれゆえに再建不能なそれを土台とした、いかにももっともらしく、健康な生命力の象徴ででもあるかのようないつわりの復興を、徹底的に憎悪をこめて破壊せんとすること。「いっさいはまやかしなのだ」とどなりながら。
その一つは、崩壊と同時にみずからの存在は宙に舞い、たえずまやかしの復興を自己にかかわらぬものとして一方では羨望し一方では呪いながら、自分であることの証しをなしくずし的にみずからの手で破壊していくこと。
そして最後の一つといえば崩壊の過程においてなおみずからを確固とした存在としてしばりつけ離さなかったもの、すなわちあの一見不毛でなおかつ決定的な重みをもつ日常性への憧憬と固執であった。
しかしこの三つは、主人公西村に典型化されているように、執拗にからみあいながら「哲学」の次元で人間を支配する。
リアリスト高橋和巳は、野間宏や椎名鱗三が《個人的な体験》を介することによってまたそこへ帰結せざるをえなかった戦争もしくは転向体験として巨視的に描き出した。それは野間や椎名が戦時中の緊迫した政治状況の中で、吉本隆明の言葉に従うなら「良心に反して」行った転向と、高橋が戦後日本の相対的安定期における「愛すべき日常性」の中でかつての窪川鶴次郎や徳永直と同様「良心に従って」行った転向を、文学的体験を軸にして問題にした、その両者の関係に対応しているといえるだろう。たしかに高橋と旧プロレタリア文学者の転向は著しい差異を質的にみせてはいる。だがそこに共通する美しげな人間的ロマンチシズムは否定できない。
とはいえ、西村を高橋の分身とはみなさないこの私にとってそれはどうでもいいことなのだ。埴谷雄高もいうように《憂鬱なる党派》とは、一方では日本における戦後状況への斬り込みとしての「思想」、他方それに対応すると同時にまさに共通した唯一無二の戦後の現実に立っている青年の「人間性」とを相互的に徹底してつきつめるリアリズムによって表現された、高橋自身の内部的政治性に他ならないからだ。
それゆえに、主人公西村の死は、「戦争」を媒介にして構築されたはずの戦後思想そのものの死を、方法的には文学の死を意味する。高橋和巳は「作者のことば」で〈敗戦の苦痛はまだ癒えず、しかも新しい理念は形成されないままお互いに角逐し、分裂し、やがて諸共ついえ去った憂鬱な青春にも一片の真実のあったことを証明したい。〉と書いている。だが私はそれは嘘だと思う。彼はそこに一片の真実すらなかったことを証明したかったのであり、したのだ。そうでない限り『ヒロシマ・ノート』(大江健三郎)まがいの西村の古風なヒューマニズムの敗北は、まさに太陽の季節に代表される他ならぬ戦後自体によってなされたという、一つの敗北宣言にすぎないのではないか。
そして気がかりなのは、高橋自身が思想と文学とのかかわりをどのあたりに求めているかということだ。というより両者の二元論的規定がほのみえる。無媒介的に自己の「思想」を感性化している政治主義者への糾弾は、単に文学の側にとどまって文学は文学だと不毛な主張をくりかえしていることにならないか。主人公西村の死は、彼の思想的な文学的なそして政治的な死を(事実としては白血病として)意味しているが、はたして高橋の主張したかったのはそのうちのどれであるか。あるいは西村の死にそれらはどのような形でかかわっているか。それを明らかにしなければならない。
(1967年3月)
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