梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第1章・《出会い》

 妻は二人の娘を連れて家を出た。「身から出た錆」と言おうか、私は、それを当然の結果として、受け止めざるを得なかった。思えば、「仕事」と称して、私自身が「家出」を繰り返し、家族をかえりみることなど、ほとんどなかったのだから。 
家には、飼い犬シロと私だけが残された。「家出」をしているときでも、なぜか、シロのことは気がかりだった。朝の散歩は毎日しているだろうか。好物の牛乳は飲んでいるだろうか。公園の芝生で思う存分走り回っているだろうか。
 「私たちと、シロと、どっちが大切なのかしら」、妻の刺々しい言葉が浮かんでくる。
 やはり、私はシロを選び、飼い犬との共同生活を余儀なくされることになった。当面の「仕事」は終わり、アパートの家賃収入だけで食べることができたので、勤めに出る必要はなかった。五十男の退屈な独身生活を紛らわすのに、シロは大いに貢献してくれたと思う。
 犬小屋の前で、「シロ。散歩に行こう」と声をかけると、どんな時でも付いてくる。
その日も、私とシロは、住宅街をぬけ、高架線をくぐって、駅前の公園に着いた。噴水の前のベンチに座り、シロの頭を撫でていたときである。不意に、後の方で「キャッ」という女の声がした。ふりかえると、傾いた車椅子に老婆が一人、それを中年の女が懸命に支えている。車輪が、アスファルトの遊歩道から、脇のU字溝に落ち込んだのだ。今にもツツジの生け垣に倒れ込みそうだったので、私は立ち上がった。
「どうしました?」
「すみません、ちょっと手を貸してください」
 私は、シロをその場においたまま、車椅子に駆け寄った。車椅子には老婆の体重が加わり、かなり重かった。
「いいですか、私が車輪を持ち上げますから、あなたはこの方の体を支えてください」私はそう言って、車椅子に手をかけ、車輪を引き揚げようとした。しかし、車椅子は動かない。
「だめだ。じゃあ、私がこの方の体を持ちあげますから、その間に、車輪を引き揚げてください」
 私は、老婆の背後から両腕をかかえ、渾身の力を絞って、抱き上げようとした。
「いいですか、それイチ、ニ、のサーン」
老婆の体重は、私の上半身に移動し、脱輪した車椅子は、遊歩道に戻った。
「ああ、よかったですね」と言うと、私はその場に座り込み、呼吸を整えた。
車椅子の老婆と、それを押していた中年の女は、代わる代わる頭を下げて、礼を言った。
「ありがとうございました、おかげさまで助かりました」
「どういたしまして、じゃあ。お気をつけて・・・」
 私は、しびれた腕をさすりながら、ベンチに戻った。シロは、一部始終の間、私たちの様子を黙って見ていたようだ。私の顔を見上げると、しっぽを振って、お座りをした。
「シロ、よく待っていられたね。えらかったぞ」
と私が言うと、小さな声で、一言「ワン」と応えた。
実を言えば、私とシロは会話を楽しむことができる。シロが一言「ワン」と言うときは「はい、そのとおり」という意味である。反対に「いいえ、違います」と言うときは、「ワン・ワン」と二言で応える。また、「わからない」ときは、首をかしげて「ウーン」と高い声を出すことになっている。
私は、さっそくシロとの会話を楽しむことにした。
 「シロ、今の二人、どう思う?」
「ウーン」
「わけありだと思わないかい?」
「ワン・ワン」
「そうかなあ」
 シロは、「つまらぬ詮索はしないように」という様子で、立ちあがり歩き出そうとした。「そうだね、どうでもいいことだ。」、私も同意して、家路についた。
 それきり、二人のことは忘れてしまおうとしたのだが・・・。
(2006.7.20)