梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

映画「終着駅」(監督・ヴィットリオ・デ・シーカ・1953年)

 DVDで映画「終着駅」(監督・ヴィットリオ・デ・シーカ・1953年)を観た。《ある青年と恋に落ちた人妻が、別れを決意しひとり列車に乗り込むが・・・、90分のリアルタイムで描かれたメロドラマの傑作。デ・シーカの演出が光る》とパッケージに記されていた。「映画.com」というネット記事では、以下のストーリーが紹介されている。


〈米国人の若い人妻メァリー・フォーブス(ジェニファー・ジョーンズ)は、断ち切りがたい想いを残してローマの中央駅にやって来た。彼女は妹の家に身を寄せて、数日間ローマ見物をしたのだが、その間に1人の青年と知り合い、烈しく愛し合うようになってしまった。青年はジョヴァンニ・ドナーティ(モンゴメリー・クリフト)という米伊混血の英語教師で、彼の激しい情熱に、メァリーは米国に残してきた夫や娘のことを忘れてしまうほどだったが、やはり帰国する以外になすすべもなかった。妹に電話で荷物を持って来るよう頼み、午後7時に出発するミラノ行の列車にメァリーは席をとった。発車数分前、ジョヴァンニが駆けつけた。彼はメァリーの妹から出発のことを聞いたのだ。彼の熱心なひきとめにあって、メァリーの心は動揺した。彼女はその汽車をやりすごし、ジョヴァンニと駅のレストランへ行った。ジョヴァンニの一途な説得に、メァリーは彼のアパートへ行くことを承知したかに見えたが、丁度出会った彼女の甥のポール少年にことよせて、彼女は身をかわした。ジョヴァンニはメァリーを殴りつけて立ち去った。メァリーとポールは3等待合室に入って、次の8時半発パリ行を待つことにした。そこでメァリーは妊娠の衰弱で苦しんでいる婦人の世話をし、心の落ち着きを取り戻した。ジョヴァンニは強く後悔して、メァリーを求めて駅の中を歩きまわった。プラットホームの端に、ポールを帰して1人たたずむメァリーの姿があった。彼は夢中になって線路を横切り、彼女のそばに駆け寄ろうとした。そのとき列車が轟然と入ってきた。一瞬早くジョヴァンニは汽車の前をよぎり、メァリーを抱きしめた。2人は駅のはずれに1台切り離されている暗い客車の中に入っていった。しばらく2人だけの世界に入って別れを惜しむのも束の間、2人は公安委員に発見され、風紀上の現行犯として駅の警察に連行された。8時半の発車時刻も間近かに迫り、署長(ジーノ・チェルヴィ)の好意ある計らいで2人は釈放された。いまこそメァリーは帰国の決意を固めて列車に乗った。ジョヴァンニは車上で彼女との別れを惜しむあまり、動き出してから飛び降りホームの上に叩きつけられた。列車は闇の中に走り去っていった。〉


 ヴィットリオ・デ・シーカといえば、イタリアン・ネオ・リアリズムの旗手として「靴みがき」(1946年)、「自転車泥棒」(1948年)、「ウンベルトD」(1953年)などの傑作を残しているが、この作品はアメリカとの共同制作であり、そのために多分に「アメリ寄り」といおうか、反ネオ・リアリズムといおうか、たしかに「壁にぶつかっている」という感じがした。一言でいえば、「彼にメロドラマは似合わない」ということか。
 登場人物はアメリカからローマに遊びに来た人妻・メアリーが、ひと時の「アバンチュール」で関わった英語教師ジョヴァンニが中心だが、すでに75歳を過ぎた私には両者に「感情移入」(共感)する意欲は萎えていた。むしろ、一度は殴りつけたのに「未練がましく」メアリーの姿を追い求めるジョヴァンニが、(メアリーの)甥のポールに出会い、「メアリーとどこで別れたか」と必死に尋ねたのに、ポールが毅然として「絶対に教えない!」と拒絶した姿に、さわやかな感動を覚えた。さらに、駅の警察署長がメアリーとジョヴァンニから事情を聴いたあと、二人の列車への不法侵入は「大人げない」、これ以上の詮索は不要(人妻の不倫騒ぎなどには関わりたくない)と断じて、無罪放免する姿は、まさに大人の冷静な判断!といった按配で、そちらの方に惹かれてしまった。したがって、デ・シーカ監督の演出が光っていたのは、二人を取り巻く周囲の「群像」の姿、二人の心情とは全く無縁の人々の表情や行動、ようやく復興の兆しが見え始めたローマの情景などなどの描出ではなかったか。ちなみに「映画.com」の作品評価は3.6であった。 
(2020.9.18)