戦後文学の思想と方法・織田作之助論・《2》
織田作之助の「文学」における基本的方法をひとくちでいえば、それはストーリー・テリングという方法である。
〈おれの小説は一気に読める、と彼は豪語していた。いかにも彼の文体はキビキビして、鈍味がなく、素早い頭脳回転に渋滞のあとがなかった。しかし彼の頭脳は素早く回転すればするほど、飛鳥の早さで別の対象へとび移って行き、ものの核心にむかって直角に斬り込んで行くことがなかった、。素早ければ素早いほど皮膚を素早くなでるのである。〉(本多秋五・『物語戦後文学史』・新潮社・97頁)
ここで本多秋五は、織田作之助の方法を明確にとらえているようで、実はとらえていないのだ。つまり「彼の頭脳は素早く回転すればするほど、飛鳥の早さで別の対象へとび移って行」くことと、「ものの核心にむかって直角に斬り込んで行くことがなかった」ということの不可避的な対立をとらえていないのである。織田のストーリー・テリングの方法はこの場合前者であるが、とはいえ彼の文体を支えるものは、本多のいうような頭脳回転の早さなどではない。それは彼のとらえた生活意識をそのまま直接的に表現するものとしての口語文体である。けだしストーリー・テリングとは日本の文学風土の中では「語り口」として存在している。そしてその方法と「ものの核心にむかって直角に斬り込んで行く」という、思想の直接的表現という方法とは、真っ向から対立するものとしてある。必然的に、織田は自己の小説の中で、自己の思想を直接的に表現することを拒絶する。
〈彼が既成文学から好んで読みとったものは、文学が純粋にもってゐる魅力、即ち比喩を使って言へば、例えば「小説の《中にある》思想」ではなくて、「小説の思想」であった。〉(「二十代の文学」・織田作之助・『織田作之助名作選集』・現代社・26頁)
織田の方法意識が、いわゆる逆説的な青春として表現されている彼の思想不信によって支えられているということは、この引用の前をよめば明らかであるが、今は彼の提起した方法とは、それではいかなるものであったかについてみていきたい。
〈俳句の写実と、短歌の抒情・・ この二つの精神によって文学といふものを考へて来た日本の作家たちは、時に文学作品を、陶器を観賞するが如く観賞し、作品の落ちついた渋さを貴しとする余り、彼らの精魂を、あげて身辺乃至心境描写の名人芸の技巧を磨くことに打ち込み、雄大なロマンを構想したり、ストーリーの奇抜な変化に凝ったりする逞しい意欲を、荒々しく弁挿することを避けたがる。〉(「最近の日本文学」・織田作之助・前出・45頁)
ここで織田は私小説リアリズムの否定を主張しているわけだが、彼はそのことによって、ひとつのジレンマに陥らざるを得ない。つまり、彼は私小説リアリズムのアンチ・テーゼとして、いわゆる近代的な本格ロマンを主張するわけだが、彼の小説は近代的な本格ロマンとは、ほど遠いものであった。織田が「二流文学論」で主張する二流意識とは、正にそうしたジレンマの集中的表現に他ならない。すなわち、織田の二流意識は、日本において一流と称せられる私小説に対するそれと、同時にヨーロッパにおける本格的ロマンに対するそれとに二重化されている。だが周知のように、日本の私小説リアリズムが、ヨーロッパの近代小説を直輸入した知識人のきわめて日本的なヴァリエイションであることは自明の事実である。織田は、私小説リアリズムのアンチ・テーゼとして近代的なロマンを主張すべきではなかった。他ならぬ彼の私小説ではない、とはいえ決して近代的なロマンでもない彼の小説がそのことを実証している。彼の小説は私小説リアリズムとも、近代的ロマンとも無縁であった。いわばそれは「語り口」としてのストーリー・テリングという方法をとる限りにおいて、きわめて日本文学にとって伝統的なものであったはずである。にもかかわらず、それでは何故に織田は近代的ロマンなどということを主張したのだろうか。私はそこに織田作之助の知識人性をみる。その主張において、明らかに彼の文学における、「小説の思想」(小説論ないしは小説美学)と方法とは分裂している。その分裂は、彼がいわゆる《醇風美俗》の生活意識に最も近い地点に身をおきながら、なおかつ依然として、知識人でしかあり得なかったということの必然的帰結であった。そのことは彼の「語り口」をそれ自体として問題とするとき、より明確にあらわれてくる。
(1967年3月)
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