梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

戦後文学の思想と方法・戦後文学とは何か・Ⅱ・《7》

梨野礫

またすぐれた文学を次のように規定している。

 〈すぐれた文学とは、われわれを感動させその感動を経験したあとでは、われわれが自分を何か変革されたものとして感ぜずにはおられないような文学作品だといってよい。感動しうるためには、その作品はわれわれにとって再経験しうるものでなければならない。(明快さの必要)またそれがわれわれのインタレストをひき感動させるということは、作者自身が切実なインタレストをもって創作経験をしていることであり(誠実さの必要)、またその経験が模倣的、惰性的ないとなみでなく苦悩にみちた真正の新しい経験だからである。(新しさの必要)そうした作品の経験を再経験することによってわれわれは心の中においてではあるが豊かで深い人生を新たに経験したことになる。〉(前出・59頁)
 だがしかし、私がある表現を面白いと感ずるのは、おそらくその表現が明快で新しくかつその作者が誠実であるからではないだろう。作者の創作経験を私が再経験しうるためには、私と作者がある共通の問題(課題)をその人生と称せられる生活意識上において共有しなければならない。私は単なる人生にはインタレストを感じないのである。それではある共通の課題を共有するとは、どのようなことによって可能なのだろうか。そのとき私は次のようなエンゲルスの言葉に注目したい。
 〈リアリズムというものは、私の考えでは細目の真実のほかに、典型的環境のもとにおける典型的人物の再生産を含んでいます。〉(「エンゲルスからマーガレット・ハークネスへの手紙」・『文学・芸術論』・大月文庫・60頁)
 私にとって面白い文学とは、典型的環境(状況)のもとにおける典型的人物(性格)の再生産を含んだ文学であり、そしてすぐれた文学も同様な基準による。しからばいかにして典型的状況における典型的な性格の表現が可能かという問題が生ずるが、それはこの後の章で具体的な作家にふれながら考えてみたい。

 私はこれまでひととおり芸術というものを一般的にみてきたわけであるが、それではそうした観点にたって「戦後文学」を規定しようとするとき、いかなるものがその規定の条件となるであろうか。いうまでもなく典型的状況のもとにおける典型的な性格が表現されているか否かということであり、私がこの章のはじめの部分でのべた2点はまさにこのことに集約されるのである。
 私は前の章の終わりで次のように書いた。
 〈さてそれではいったい戦後文学とは何なのか。それは、戦後の状況を的確にとらえ、その中で自己を明確に位置づけ、さらにそれまでの文学を正に文学的に乗り超える可能性をもったものでなければならない。いいかえれば、それは日本人の意識状況を根柢的に規定している《醇風美俗》の生活様式と真っ向から対決し、その文学的表現である私小説リアリズムを文学的にのりこえる方法をきずきあげるものでなければならない。〉
 日本の戦後文学をとりまく戦後の典型的状況として、直接にそれを規定するものとしてあったのは、すでにみたとおり《醇風美俗》の生活意識であり、天皇制権力機構からの解放意識であり、近代化への志向の意識であった。だが、戦後への歴史的転換が人々の生活を根柢的に転換せしめなかった以上、そうした意識状況のうちどれが最も典型的なものであるかを規定するのはむずかしいことではない。事実、佐々木基一は近代化への志向意識が幻影だったことを認めた。天皇制権力機構からの解放の意識は、現に象徴天皇制を甘受させられている。そして日本の文学が私小説リアリズムを方法的にのりこえられていないこともまた周知の事実なのだ。人々の生活が《醇風美俗》の様式から脱け出していないことを思えば、そのことは自明の理なのである。

(1967年3月)

戦後文学とは何か・Ⅱ・《7》 : 戦後文学の思想と方法