戦後文学の思想と方法・戦後の状況・Ⅱ・《6》
村上一郎はそのことを裏づけるかのように次のように書いている。
〈ラジオが詔勅の声を流したとき、泣くものが多かった。が、泣いたのは、実は敗けてもよいと思ったものであった。ぼくらは泣かなかった。天皇そのもののことは別に考えていなかった。天皇には政治はないように思っていた。天皇が、切腹しようと生き残ろうと、それより近衛や吉田が問題だった。〉(「戦中の条理と不条理」(村上一郎〉・『現代に発見』・Ⅰ・前出・81頁)
さてそれでは、《天皇制意識》と《醇風美俗》からなる日本人の意識は、8月15日以後どのような転換をとげるのであろうか。それはひとくちにいって、《天皇制意識》の変質と、《醇風美俗》の拡散・沈潜ということであった。
まず《天皇制意識》は《人間天皇》意識へと変容していく。
〈支配者が操縦する基本的シンボルは《国体護持》(鈴木首相)→《民意暢達》・《天皇統率のもと真の意味のデモクラシー》(東久邇宮首相)→《天皇・民主主義》(幣原首相)→《象徴天皇・主権在民・民主主義(日本国憲法)》とほとんどなしくずしに占領軍の要求に対応しながら、ごく微妙にごく緩慢に移行していったが、それと同じ経路をたどって国民のがわの天皇意識も《一君萬民》的精神主義から、親愛なる《民主化》された人間天皇へと変容していく。その契機は、上からはG・H・Qの天皇制批判の自由の指令(45.10.4)、下からは共産党からの激烈な天皇制打倒のなかでおこなわれる46年元旦の天皇《人間宣言》である。これを契機に、すでにはじまっている巡幸政策とあいまって民主化された《人間天皇》の時期へ移っていく。科学者として、平和主義者として、皇室家族の愛情深い家長として、そして国民の《象徴》的家長としての天皇が前面におし出される。〉(『日本資本主義講座』・Ⅸ・前出・167頁)
日高六郎は、そうした天皇制自体の変容の中に注目すべき次のような意味を見出している。すなわち、それは天皇を非政治化することによって天皇の戦争責任をまぬがれさせようとすることであり、また他の側面では天皇が非政治化するという正にそのことによって再び政治化したということである。日高はそのことについて次のように述べている。
〈「国威発揚:から「国体護持」へという消極的姿勢はやがて「お気の毒な天子様」だけを残してそのほかの国体観念の価値を暴落させた。国体観念の魔術から解放された目ざめた民衆の意識は天皇制にとって危険な敵となる。天皇は《全体的シンボル》から《部分的シンボル》へと転化し、国民全体を完全に統合する唯一の原理はもはや失われた。しかしそれは《部分的シンボル》となることによって(また同時に「非政治化」されたまさにそのことによって)、政治闘争の渦中へ再びひきずりこまれることになる。天皇に敵対する新しい勢力の存在はすでにみとめざるをえない。そこで敵を《国民》と《国民感情》から遊離させるための武器として、天皇シンボルが登場する。共産主義者の天皇制批判は、しばしば《国民感情》を逆なでするものとして反批判をよびおこす。そしてマス・コミュニケーションはくりかえしこのような反批判をとりあげた。〉(前出・170頁)
(1967年3月)
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