梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

戦後文学の思想と方法・戦後の状況・Ⅱ・《4》

梨野礫

 ここではそうした意識の違いが、戦前派知識人と一般大衆の違いとして述べられている。だが「8月15日」意識の違いは、単にそうしたいい方では説明でき得るものではなく、むしろその内容において千差万別であったのだ。なぜというのに、「8月15日」意識とは、今述べたような、それ以前の戦争評価の意識、さらには千差万別な戦争体験といったものに直接的に規定されているからである。

 〈正午に重大発表があり、どうも戦争に負けたらしいという朝日の記者の言葉に、市役所のまえでぼう然と放送を待った。天皇陛下の抑揚のあるお言葉は、はっきり聞きとれなかったが、声をあげて泣いた。明日がどうなるか、そんな考えはなく、ただもう悲しくくやしかったが、その頭のどこかでこれで空襲がなくなるという安堵感があった。〉(伊藤賀代・『青春の記録』・Ⅰ・三一書房・281頁) 
 〈昭和20年8月15日は、動員先の工場の焼跡整備作業の炎天下で放送を聞き、ひとりになって、思いきり涙を流しただけであった。その涙には負けたくやしさとともに、自分がいとおしいというような甘美なものもまじっていた。おそらくその時、生まれてからいままで自分をささえ、かつ押さえていた一切の倫理や価値観が、潜在意識の中の超自我までが崩壊した。いや、ふわっと消失してしまったのではないだろうか。〉(奥野健男・前出・285頁)
 〈20年8月15日。終戦を告げる天皇の放送は、母や妹たちと、うちのラジオでききました。前日から重大放送があるといわれ、それが戦争を終わらせるという内容のものらしいということは、勤め先できいていましたので、格別のショックはうけませんでした。初めてきく天皇の声は、声音、抑揚とも耳なれぬ異質な人の声で、耳からはいって心にじんとひびくものがなく、うつろに頭の上をかけぬけていくような、そんな印象をうけました。それでも「ああ、戦争がおわった。」といういいようもない解放感、「これで生きていることができるのだ」と思ったときの、ぱっと目の前がひらけたように感じたあの明るさは、いまも実感として、心にのこっています。〉(影山文・前出・274頁)
 人々のそうした「8月15日」意識をみるとき、注意しなければならないのは、生活意識の中における「8月15日」と、歴史過程の中で「8月15日」がもつ意味との間における、ある《ずれ》である。
 「8月15日」は、日本における戦前社会の帰結点であると同時に、戦後社会の出発点であった。そしてその戦後社会においてイニシャチブを握っていたのは、戦前から一貫してその政治権力に固執している天皇制官僚及び経済的な支配権を握る独占資本家、そうした日本の支配者を利用することによって間接統治をもくろむ、アメリカ占領軍であったことはいうまでもない。それゆえ「8月15日」とは、正に、これからも戦後社会を支配しつづけようとしてアメリカに利用される結果となった、日本の旧支配者たちによってでっちあげられた、記念すべき日であった。そのことは、いわゆる玉音放送の詔勅を一読しれば一目瞭然である。
 日本の旧支配者が「8月15日」以後、アメリカ占領軍の支配下におかれるまでの数日間、最大限に利用しようとしたのは、人々の意識の中にある国体の観念であり、天皇制意識であった。
 〈1945年8月15日、「国体護持」の大義名分のもとに「時局の収拾」がおこなわれたとき「軍・官・民」はほとんど支配層が期待したとおりの反応を示した。周囲のとおり、ポツダム宣言受諾の決定は、原子爆弾とソヴェット同盟の参戦と、そして天皇の「聖断」とをたくみに組み合わせて、支配階級によって極秘裡に準備された。〉(『日本資本主義講座』・Ⅸ・前出・165頁)

(1967年3月)

戦後の状況・Ⅱ・《4》 : 戦後文学の思想と方法