梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)通読・9

梨野礫

《第三章 情緒と情操》
《一 情操の特性》
【要約】
・感情の中には、情緒・原情のほかに、情操といわれるものが含まれている。ドラマに感動したり、文学や音楽に感動したりする心をいう。情緒のレベルより、いちだんと成長した感情であるといえる。
◎情操の特質
⑴ドラマや音楽に感動するという時、涙が出るということもあるから、一種の生理的な現象を伴っている。突然現れるつきあげるような涙ではなく、静かに徐々に現れる涙である。継続的、持続的な涙であるといえる。
⑵情緒と違って、衝動的な行動を伴っていない。他人を攻撃したり、荒れたり、どなったりするようなことはない。
⑶情緒のような即事性が乏しい。外の刺激に応じて即座に現れるということは少ない。刺激の消失とともに消えるということもない。その感動は、しばらくは残されて徐々に消失するという形を呈する。
⑷感染性はあるが、感染の筋道は、(熱の伝わり方に例えれば)輻射ではなく伝導、対流の伝わり方に似ている。
⑸情緒の現れ方と違って、かなりの広範囲で多様な刺激を受けているという点で、ある程度の客観性をもっている。
⑹情緒の特性である没論理性といったものも少ない。
・情操とは、没論理性、即事的な行動性、非客観性、感染性といったものが伴わない感情で、生理的な現象も明瞭ではなく、衝動的な行動や心情も伴っていない、といえる。
◎情操を一言で定義すれば「真・善・美に感動する心」ということができる。
*この時忘れてならないのは、その背後に必ず「人」がいるということである。「人」の行う真なる行動、「人」の作り出す美に感動する心が情操である。真と善については、そこに「人」が介在することは当然だが、美については、必ずしも「人」が介在しない美もありうるから理解しにくい面がある。「人」の入り込まない美を情操から除外しておく方が理解しやすい。(オルゴールの音楽、自然の風景、花の美しさなどに感動する心は、情操から除外する)
・情緒における「人」は、まず、自分の欲求を阻止するものとしての「人」である。攻撃や破壊を行う対象としての「人」である。感染を起こす刺激としての「人」である。
・情操における「人」は、社会性、価値を含んだ「人」である。「人」の行う真・善・美を《判断》すること自体、社会的な価値観を含んでいる。
・「人」にあこがれる、したわしいという感情は情緒(快)の範囲に入るが、それが情操化されると、尊敬する、信頼する、愛するといった内容になってくる。それがさらに、高度化され、洗練されてくると、道徳的な情操、宗教的な情操といったものに成長するかもしれない。人生観・世界観といったものも、こうした情操をベースとして醸成されていくものであろう。
・(情緒と同様に)情操においても、ある種の欲求がベースにあることは事実である。「あのような立派な人になりたい」「自分を高めてゆきたい」「他人から認めてもらいたい」といった、ある価値観を伴う欲望で、そこに意図を含んだ欲求(意欲)である。 
・立派な人の行動に感動するがゆえに、「あのような立派な人になりたい」という意欲を醸成してゆくという相互関係が成立している。それが「やる気」「学習意欲」の源泉になっているようである。


・情緒と情操の関係は、感情の発達的側面をもっている。小学校低学年では情緒的だが、中学年、高学年、中学生になるにつれて情操が育ってくる。(先生をしたう→教師批判、くやし泣き→感動の涙)
・情緒と情操の中間(亜型)がありうる。《例》てれる(甘えと恥ずかしいの二重の情緒、愛情という情操の一つ手前の亜型)、したわしい→あこがれる→愛情という系列の、「あこがれる」も亜型、くやしさ→うらやましい→尊敬するという系列の「うらやましい」は亜型。


・情緒から情操への発達の問題で、もう一つ留意すべきは教育との関係である。
・「情操を教える」という言葉は成立しない。「情操を育てる」でなければなるまい。育てるというのは、教えるという働きと比べるとかなり間接的な働きである。
・名画を見せて「美しいと思いなさい」と教えても、美しいと思えるものではない。その絵が美しく思えるのは、彼自身が思うのである。ただ傍らの人間がそれを刺激するとすれば、「美しいね」という言葉を口にした時に刺激できるだけである。ドラマを見て「すばらしいな」と口にする時、そこに感情の共感が起こって、その共感として、すばらしいと思えるのである。これが情緒を育てるという働きである。それには、心情的に近い関係にある人が、生活を共にしながら、お互いに共感し合える間柄の中でのみ育つものである。そのもっとも適当な関係といえば、いうまでもなく親子関係でろう。
・《親子関係の中でこそ、情操は育てられるのである》
・第三者の関係、指導者と指導される人間の関係の中では、知識や技術を伝えられるだけである。学校教育の中では、情操を育てることは困難である。
・道徳的な情操を学校教育の中でとり上げることは、心理学的に疑問を感ずる。学校で道徳の指導を行うことの目的が、道徳的な心情とか情操をもたせることであるとすれば、すでにかなり困難な面をもっている。道徳の徳目に関する知識を伝えることはできても、教師は四十数名の子ども一人一人と共感することは困難だから、情操としての道徳観を育てることはできない。道徳的な情操は、やはり何といっても家庭でなければならぬ。現在の学校で行っている道徳教育は、おそらく道徳的情操のある部分をになっているにすぎない。


【感想】
 ここでは、「情操の特性」について、大変わかりやすく述べられている。情操は、原情や情緒がさらに発達した感情である。要するに「真・善・美に感動する心」であり、そこには必ず「人」が介在していなければならないという説明に、私は全面的に同意する。
 また、情操は「育てる」ものであり、「教える」ことはできないという指摘も十分に理解できる。とりわけ「育てる」ということは、傍らにいる人間がその心情を「間接的」に刺激し、本人が「共感」できるような場面を設定することであり、それができるのは生活を共にする家庭以外には考えられないという主張も、まったくその通りだ思う。
 自閉児の場合、情操以前の段階で、すでに発達不全(感情に乏しさ)が感じられるが、情緒を「共感」できるような場面も不足していたのだろうか。
 いわゆる「心の理論」(他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能)が不足しているといわれているが、上のような「共感」の場がなければ、相手の心情(感情)を推測することは困難であろう。
 いずれにせよ、「育てる」ということは、①生活を共にすること、②周囲の人間が「感情表現」をして見せること、③それを「刺激」として受けとめ「共感」するように「仕向ける」こと、④それらを持続・継続することによって、感情の醸成を図ること、であることがよくわかった。性急に(直接的に)「教える」のではなく、見守りながら(間接的に)刺激を与え「待つ」ことが重要なのである。
(2017.1.9)