梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症治療の到達点」(太田昌孝・永井洋子編著・日本文化科学社・1992年)精読(23)・Ⅵ章 認知発達治療の実践 東大デイケアの経験から・3

【要約】
2)StageⅢ-1の症例(症例2)
⑴症例の概要
症例:N君(男子)は、4歳2か月で受診、小学校入学までの2年間通院した。主訴は、言葉の遅れ、きまりが多い、対人関係がうまくできない、であった。家族は、父、母、本児、弟の4人である。
現病歴:8か月頃、声をかけても振り向かないので変だと思った。10か月頃より歩き始め、1歳頃には走り回るようになった。手をつなぎたがらず、抱くと固くなってしまった。言葉は、最初の有意味語「パパ」が2歳頃に出現し、この頃からオウム返しが多くなった。遊びは乏しく、ひとりで走り回るのが好きであった。TVの画面に手をかざしたり、特定の音を嫌がり耳ふさぎをした。こだわりが強く、生活に支障があった。診断は幼児自閉症であった。
⑵デイケア通院開始時の状態
・人を無視しているように、孤立していることを好んだ。治療者からの働きかけを拒否し、嫌がり、泣き騒ぐなど取りつく島がなかった。TVのCMなど独り言を言いながら歩き回ったり、好きな特定のおもちゃをいじったりと、ひとりで淡々と過ごしていた。新しい道順や散歩の場所に不安を示し、泣いて騒ぐことが多かった。絵カードの隅にある数字を言ったり、パズルを裏返し数字で合わせたり、会社のマークに執着するなど、細かなこだわり行動が目立った。
・言語の理解は、身のまわりの物の名はだいたいわかり、靴を履く、弁当箱を持ってくるなど日常簡単なことは言葉かけで行動できた。言語表出は、抑揚のない単調な言い方で「こっち、こっち」と同じ言葉を何度も繰り返し、拒否のときに「やなの」と言うだけで、コミュニケーションとしての言葉の使用は乏しかった。食事はまったく手をつけず、強い拒食を示した。
⑶治療方針
・1年目は、行動上の問題を持っている5名のグループに所属して、個別の働きかけを主体としてきた。2年目は、認知レベルが向上し、StageⅢ-1以上のグループに所属し、子どもどうしのかかわりあいをねらいとすることができた。
・N君の問題点は、①働きかけ誘いかけに対する拒否的態度が強く、人への関心が乏しいこと、②遊びの内容が貧困で、シンボル機能の広がりが乏しいこと、③小食、偏食、ムラ食いなど、食事の偏りがあること、であった。
・1年目の初期には、治療者からの働きかけに慣れ、指示に応じられることを重点にし、後期には、StageⅢ-1の前期の課題を中心に、言語の多義的な理解を促すことを重点にした。
・2年目には、StageⅢ-1の後期の課題をに重点が置けるようになり、言語による物と物との関係概念に気づき、理解を促すことを主なねらいにした。
・治療者からの働きかけに、泣いて騒ぐことが多かったので、学習と食事の場面だけ集団活動に参加するように行動を促し、その他の場面はN君が比較的自由にふるまえるようにした。
・学習の場面では、N君が好きな手遊びやリズム運動、サーキットなど運動課題を多くし、着席している時間を短くした。言い聞かせながら手をにぎり、安心させ、着席時間を徐々に長くしていった。
・自由な場面では、集団から孤立しがちであったので、治療者は身体接触を伴うくすぐりっこ、おいかけっこなどをして誘いかけるようにした。
・食事の場面では、食べることを拒否し、強くすすめると泣いて騒ぎ混乱がエスカレートしたので、好きな麺類を家庭から持ってきてもらい、少しでも食べられるようにしていったところ、拒食だけは改善された。
⑸認知発達学習
・パズルやペグさしなど好きな教材・課題を多く取り入れ、好きなCMソングを歌って気分転換を図るなどの配慮をしたところ、15分間の学習プログラムが可能になった。
・1年目の前期には、治療者がN君の横に座って、StageⅡの課題の充実を図った。
・1年目の後期には、StageⅢ-1の課題に向上した。
*《20分間の学習プログラム》①導入の動作模倣、②白黒絵カードを呈示、「~するものはどれ?」「~(名詞)はどれ?」に指さしで答える、③動作カードを呈示、「~しているのはどれ?」に指さしで答える、④実物数個を呈示、「~と~をちょうだい」または、実物を離れた所に隠し「~と~を取ってきて」の複数指示に答える、⑤実物を風呂敷の中に隠し、絵カードを見せてその実物を取る。
・N君は一度教えると、教材を見せただけで前にやった学習のときとそっくり同じ答えをしてしまい、なかなか意味の理解につながらなかったので、同じ絵カードを使っても名詞や用途で交互に質問する、質問の順序を変える、質問から応答までの時間をおく、応答のしかたは指さし、身振り、言葉というように多様にする、などに留意した。
・2年目の中頃になると、N君は複数指示の理解が確実になり、StageⅢ-1の前期の課題が着実にできるようになった。そこで、近接の関係や比較の基礎をつける後期の課題に重点を移していった。
・2年目の後期には、就学を控えて文字や数に親しむことを含めてStageⅢ-1の重点課題を達成できるように取り組んだ。幼児基本語彙で150語の理解と表出ができ、用途や動作語の言語表出も確実になった。描画では人の顔や体が描け楽しめるようになった。ひらがなの文字見本を見て書け、数も10まで数えられた。しかし、比較の理解、言語による物と物との関係の概念を理解することは十分ではなく、今後も課題である。
⑹適応行動の課題に向けて
・着脱、排泄はほぼ自立していたが、食事面では偏食が問題であった。治療者は、食べられるものをお弁当に入れてもらい、好きな食べ物をごほうびにしながら、食べ物の種類を増やすようにした。治療者はN君の頑張れそうな目標を置き、それに向けて根気よく働きかけた。偏食は大幅に改善されなかったが、安定して適量の食事が食べられるようになった。
・N君は、自由な場面ではおもちゃやトランポリンなどの遊具で転々と遊んだが、グループ学習では、環境の設定を配慮することによって、音楽に合わせて簡単な遊戯やゲームを楽しめるようになり、全体の指示や集団の動きに応じて行動できるようになった。
・学習形態は、1年目は1対1であったが、2年目のStage-Ⅲ-1の後期の認知レベルの時期になって、2人組の学習が意味を持つようになってきた。1対1よりもリラックスして学習に取り組み、自習では「パズルをやりたい」と自分から課題を選び、済むと「終わりました」と治療者に言ってくるようになった。
・着替えの順序、名札をつける位置、ボタンのかけ方、寄る店、買う物などが「お決まり」のこだわり行動に対しては、治療者が事前に言葉かけをしたり、「~と~のどっちがいい?」とN君が選択できるように促したりした。N君のこだわり行動は、言語理解がすすむことで行動のコントロールができるようになり、こだわり行動も緩和でき、少しずつ柔軟になってきた。
⑺対人・コミュニケーション能力を育てる
・人に背を向けてひとりで数字合わせの遊びなどに執着していたN君に対しては、まず治療者からの働きかけに慣れ、好きな遊びを一緒にし、人からの誘いかけに応じることをねらいにして働きかけた。
・2年目にはグループの子どもたちの力動を活かすように場面を設定した。簡単な遊戯を通して友達と手をつなぎ踊ったり、楽器を使って歌遊びに取り組んだ。簡単な身振りはよく覚え、友達と手をつなぐことも自発的にできるようになった。N君がリードする場面も見られるようになった。
・コミュニケーション面では、当初、拒否の言葉や場面に関係のない独り言が目立ったが、2語文を有用なコミュニケーション手段として確実、豊富にすることをねらいにして、その都度促したところ、2年目の後半になると「トランポリンがしたい」「~ちゃんと踊りたい」「おしっこ行ってきます」など、自分の意思を言葉で表現したり、許可を求めるようになった。治療者が「着替えた?」と聞くと「やってるよ」と答え、「これ食べなさい」と言うと「最後だよ」と答え、「終わりにしようか」と言うと「まだやりたい」と答えるなど、簡単な応答、要求の表現、自分からの意思表示も見られるようになった。全体的にパターン的であるが、やや自然さが感じられ、担当の治療者と共感できるようになった。
⑻治療効果と今後の課題
・この2年間の治療教育の経過の中でN君は大きく変化した。表情が豊かになるとともに言語理解、言葉での表出、対人・コミュニケーション、適応行動の獲得など、どの面から見ても発達と進歩が見られた。
*「発達質問紙」の経時的変化(数字はDA:推定 4歳→6歳6か月)
〈運動〉36→72 〈生活習慣〉21→38 〈探索〉21→26 
〈言語〉0→10 〈社会性〉21→20
*「田中ビネーテスト」
〈生活年齢〉52か月→72か月 〈精神年齢〉33か月→42か月
〈知能指数〉63→58
*「絵画語い能力検査」
〈生活年齢〉53か月→72か月 〈修正得点〉0→13
〈語彙年齢〉2歳以下→3歳8か月
*「StageⅢ-1」の発達課題達成度(終了時「確実にできる」課題)
〈視覚運動協応や随意運動の発達を促す〉
〈言葉により属性を認識し言語で表出する〉「色・形の理解と言語表出」「動作語」
〈言葉の世界を豊かにする〉「語彙数を増やす」「簡単な文の言語表現」(前期に達成済み)
〈短期記憶の容量を増やす〉
〈物と物との関係の概念の理解を促す〉「チャンキング」「仲間あつめ」「同じ違うの理解」
〈イメージの世界を確実にする〉「身近な物の描画や制作」
・未達成の課題:「比較の基礎をつくる」「コミュニケーションを豊かにする」
・達成度(達成した課題数÷StageⅢ-1の〈取り組んだ〉課題数)83%(ただし開始時にできていた課題を除くと82%)
・会話はまだパターン的であり、物と物との関係の概念を就学までに獲得させることはできなかった。今後のN君の課題は基本的な比較の概念を獲得することにある。今後その壁を乗り越えられれば、より柔軟な言語思考を獲得することが期待できる。


【感想】
 以上が、「症例2」(N君)の「認知発達学習の実際」である。著者らは、〈この2年間の治療教育の経過の中でN君は大きく変化した。表情が豊かになるとともに言語理解、言葉での表出、対人・コミュニケーション、適応行動の獲得など、どの面から見ても発達と進歩が見られた〉と述べているが、「どの面から見ても発達と進歩が見られた」と言えるかどうか・・・。特に「乳幼児精神発達質問紙の各領域別の発達年齢を見ても順調な伸びを示している」ということだが、私の独断と偏見によれば、順調な伸びを示しているのは「運動」の領域(だけ)であって、「生活習慣」は3歳レベル、「探索」は2歳レベル、「社会性」「言語」は1歳レベルにとどまっているではないか。たしかに、「絵画語い能力検査」の語彙年齢は3歳8か月まで向上しているが、それは単語レベルの理解力が向上(語彙のレパートリーが増えた)しただけであって、「コミュニケーションを豊かにする」というStageⅢ-1の課題達成には寄与していない。言い換えれば、N君の「言語能力」(シンボル表象水準)は、「認知発達学習」という《非日常的場面》(学習場面)に《限られてのみ》向上したのであって、日常の生活に般化されていない。著者らは、N君の今後の課題として、「基本的な比較の概念を獲得すること」を挙げており、その課題を達成すれば「柔軟な言語思考を獲得することが期待できる」と述べているが、「柔軟な言語思考」とはどのような思考だろうか。そのことによって「コミュニケーションを豊かにする」というStageⅢ-1の課題も達成できるのだろうか。再び、私の独断と偏見によれば、N君の最大の問題は「会話はいまだにパターン的であり」という点にある、と思う。治療開始時の保護者の主訴は「言葉の遅れ、きまりが多い、対人関係がうまくできない」であった。その「きまりが多い」(ある物事にこだわる)ことと「会話がパターン的である」ことは、同質の問題ではないだろうか。N君は、自分の「話し方」にも「きまり」を定めている。著者らはそのことについて(治療開始時)〈言語表出は、抑揚のない単調な言い方で「こっち、こっち」と同じ言葉を何度も繰り返し、拒否のときに「やなの」と言うだけで、コミュニケーションとしての言葉の使用は乏しかった〉と評しているが、単調な言い方で「こっち、こっち」と繰り返すこと(叙述)も、拒否のときに「やなの」と言うこと(拒否の表現)も、コミュニケーションとしての言葉の(豊富で的確な)使用例である。つまり、N君は4歳9か月時、コミュニケーションとして言葉を使用し始めていたのである。大切なことは、その「芽」を育むことであり、具体的には「抑揚のない単調な言い方」が「怒り」や「憤り」「くやしさ」「悲しみ」「喜び」「楽しさ」「笑い声」によって「変化」するような「心の交流」の機会を設けることではなかったか。東大デイケアの生活にもそのような機会があったに違いない。しかし、著者らが重点を置いていたのは「認知発達学習」を中心にした「認知能力の向上」のための(プログラム化された)《課題》の方であった。その結果、「会話はいまだパターン的であり」という残念な状況が続いているのだ、と私は思う。
 著者らは「この2年間の治療教育の経過の中でN君は大きく変化した」と総括している。しかし、その変化が、自閉症の「本態」(私の独断と偏見によれば、新しい場面・物・人への不安と回避、葛藤)にかかわるものであったか、その根本的改善(治療・治癒)を示すものであったか、は疑問である。そのことは、「⑻治療効果と今後の課題」で示されている「発達質問紙の経時的変化」のグラフを見れば一目瞭然、「社会性」の伸びはほとんど見られないのだから・・・。(2014.2.14