梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症 治癒への道」解読・《22》第10章 事例(1)【はじめに】【六人の自己流治療例】(1)ポーラ

《第10章 事例》
◎要約
【はじめに】
・この章では、当面どうしたらよいのか、どのようなやり方が最善かについて、詳細に示そうと思う。どのような状況や因子が子どもを自閉症にするか、それがケースによってどのように違うか、どうすればその障害を回復させることができるか、について具体的に述べる。
・第一部は、これまで出版されたことのない「自己流ママ」の治療事例(要約)、第二部は、6冊の(市販されていながら「専門家たち」からとりあげられなかった)本の抄録、第三部(付録Ⅰ)は、(二つ以上の専門誌から掲載を拒否された)ウェルチ博士の論文、第四部(付録Ⅱ)は、孤立して研究を進め、独自の理論を発展させてきた精神科医・M・ザッペラ博士の論文である。両博士は、自分のクリニックの中で安楽椅子的な仕事をしている「専門家たち」と違って、《実践野外研究》をしている点が共通している。
・二人の精神科医だけが新しい考え方の代表者というわけではない。このほかにも数人の実践者がいる。二人は、新しい事実の「前衛部隊」にすぎない。その事実が自閉症のつゆ可能性を示すものであることは、子ども両親にとって重要な意義がある。


【六人の自己流治療例】
《ポーラ》(1961年8月6日生まれ)
・最初から「乳を飲む力が弱い子」であった。飲む量は少なく、たえず下痢気味で、体重が減った。
・生後6週目に3週間、単独入院した。(細菌感染の疑い、経過観察、ペニシリン療法)
母が見舞っても、他の人に対しても「笑わなかった」。一方、「ひとりでいる時」「動いているもの(ボールなど)を見て」笑うことがあった。
・ビスケットを差し出されても「どうするものかまったくわかっていない」様子を見て、年齢相応の発達をしていないことに両親は気づいた。顔の表情が「うつろ、空虚」であることも気になりだした。
・退院後も、様子に変化はなかった。彼女は「満ち足りた」様子で、正常な時期に「喃語」を言うようになったが、15か月頃、それが消えて行った。
・18か月頃、両親は「耳の聞こえ」を疑ったが、非社会的な音(金属の灰皿が落ちる音など)には反応した。
・白い椅子の斑点、電灯のスイッチなどには興味を示した。
・20か月の頃、ボールで何時間も遊んだり、椅子を押して歩くことを喜んだ。母親は「なんとかしてつながりをもとうと心がけて何時間も一緒に遊んだ。また、自動車が通り過ぎる時の音に夢中になって喜んだ。ある日、名前を呼ぶと、隣の部屋から這ってきた。
・海岸のキャンプ場に連れていったが、手押し椅子にしがみついて離れようとしなかった。両親は何度もくり返し(好きな)ボール遊びに誘い出そうとして、最後には椅子から離れさせることに成功した。この間にポーラは母親への愛着を示し始めた。しかし、依然として、ナイフやスプーン、皿で何かをたえまなく叩くという「常同行動」を示したり、母親の手をとって「なんでも欲しいもの」の方へ押しやったりすることがあった。
・2歳半の時、聴覚障害を疑って耳鼻科を受診した。後で目覚まし時計が鳴っているのに、何の反応も示さなかった。
・強迫的な感じで、毎日、椅子を押して歩き回ったり、暖房用のラジエターを叩いたり、ナイフやフォークで物をコンコン叩いたり、長い間床に寝そべったりして、「人との接触」はまったくもたなかった。
・1964年1月(2歳5か月)、ポーラは呼吸器系の障害をともなう重症の風疹にかかったが、家ですごした。(入院はしなかった)1月13日に、母親が録音機を使って遊んでやると、ポーラは「有頂天」になった。母親は連日、録音機で遊んでいる間に、ポーラとの「本物のつながり」(より強い絆)ができてきた。ポーラは、病気が治った後も、公園や森に散歩の時など、ひどく怖がり「不安」を示していた。
・1964年の復活祭(2歳8か月)の時、悪性の肺炎を起こした。非常に不安がり、ひとりで立つことも歩くこともしなくなってしまったが、病気が治ると、両親は再び子どもの両側から手をつないで、日課の散歩に連れ出すことにした。
・音楽に興味をもっていることははっきりしていたので、おもちゃのピアノを買ってやったところ、たちどころになじみのメロディーをひとりで弾いた。ピアノを移動させれば、ポーラを部屋から部屋へと誘い出すことが楽にできた。両親は子どもの状態が全体にわたってよい方向に向かっていることに気づき始めた。ポーラはクラシック音楽(バッハ)が特別に好きで、木琴を聴いたり叩いたり、録音機も好きになった。ことばの理解も示し始めた。公園のあひるを見つめて「アイウーアイウ」と言ったりするようにもなった。
・3歳の頃、動物の絵のジグゾーパズルを与えたが、3歳の夏には、それでよく遊んだ。
・海岸に再度連れて行ったが、海岸の水たまりの中を、用心深くパシャパシャ歩いたりした。
・帰宅してから、スピーチセラピストの所へ定期的な指導を受けに通ったが、これは効果がなかった。指導にはまったく反応しなかった。
・庭でブランコに乗って遊ぶようになった。排泄のしつけもだいたいできていた。
・1964年のクリスマス(3歳4か月)、肺炎にかかり、ポーラの行動は「退行」した。
「私どもはもう必死でした。家族全員が苦しみました。精神科医にかかろうと思いました」
という中で、新しい小さなピアノを与えると、次第に元気になり、ひきこもりも少なくなってきた。(精神科のことは忘れることにした)
・こんどはリトミックのクラスに連れていくと、たちまちピアノに夢中になり、母親のことなど忘れてしまって、家に帰ろうとせず、ひきずって帰ってからも泣きやまず、モーツアルトのレコードをかけるとやっと泣きやむというありさまだった。いつも自分の楽器類を、自分の周りに半円状に並べているとひどく御機嫌だった。
・この頃からポーラはめざましい進歩を示し始めた。(食事、排泄が自立した)ことばを話し始めた。(始語は「ピアノ」)
・1965年の春と夏(3歳8か月・4歳)にはめざましい進歩がみられた。(本物のピアノで母親と一緒に正しいメロディーを弾いた。バッハの曲を聞くとブランコに行ったり、ブランコの絵を描いたり、手でゆれる動作をしたりした。バイオリンのレコードを聞きたがり、母親に弓を引くような動作をせがんだ。ことばの方もとんとん拍子に進歩し、リトミックの発表会に出席時、風船を「ちょうだい」と言ったり、子どもたちが舞台に並ぶと「汽車」と叫んだり、指揮者を見ると「拍子をとる人」、トライアングルの音が鳴ると「木琴」と言ったりした。
・1965年5月17日(3歳9か月)には、はじめてはっきりした意味のある応答をした。ポーラが叔父と叔母に近寄ってブランコを描いてくれとせがんでいる時に、母親が「自分で描いたら」というと「だめ、かけないの」と答えた。ピアノを弾きたくない時は「ピアノがねむいって」と言った。
・ポーラは依然として新しい部屋を通り抜けることがきらいで部屋の入口のところに横になって訴えるようにないていることがあった。
・母親は、毎日、公園のあひるの所に連れて行くと、毎日「短いお話」をさせられた。ある時、母親のほうが気持ちが沈んで歌が歌えなかった時など、ポーラが代わりにその節を歌い「さあ、もうすぐおうちよ」と言った。
・1965年の9月(4歳1か月)、姉が通っている幼稚園に入園した。ことば(文章)の指示に従うことはむずかしかったが、他の子がやっているのを見ればすぐにできた。男の子と友だちになり、よくその子のとなりで遊んでいた。
・(お向かいに住む)歯医者のところに、(「予行演習」を何度かくり返した後)「ひとりで」行けるようになった。
・この年の「話し方」は、依然として短い「電文体」であったが、理解力および思考については向上を示す多くの兆候がみられた。
・小学校入学のため、姉が幼稚園を去った時には、ポーラはひどく混乱してしまった。
・6歳に達したとき、「知能」のテストが行われ「2歳相当の知能」と判定された。しかし、「彼女が何か特別のもの」をもっていることに気づいた先生方は、普通の小学校に入れることを決めた。
・まもなく読みはよくできるようになったが、算数はむずかしかった。
・毎週バレエのけいこに通い始め、小さな役を演じた。
・近所の人や訪問客に向かって話をするようになり「おうちはどこ?」と聞いていた。
・学校であったこと、いやだったことの場面を、人形を使って再現した。
・親との接触も着実に改善されてきたが、依然として、ひとりで寂しがっていることもあった。年上のきょうだいのふたりともいくらか接触ができた。
・小学校で通常の6年間が終わった後、さらに1年留年させてもらうことになった。学校では、よくからかわれた。しかし、よく勇敢に、耐え抜いたので、先生は「将来はきっと明るいだろう」と予測した。
・中学校(古典と人文を重視するグラマースクール)では着実な進歩を示した。
・何となく書きことばふうの話し方が目立ってきた。(両親の考えでは、小さいときに周りの人が話していたことばをほとんどとり込まなかった結果だと思う、ということであった)
・1979年(17歳)、卒業試験の準備中であったが、彼女はまったく普通の人であり、ことばの使い方も立派で、魅力的な人であり、人に対してもおちついた態度でふるまっていた。
・1980年9月(19歳)、大学で歴史を専攻していた。彼女はまったく冷静で、礼儀正しく親しみ深く人をもてなした。自分の過去についても、覚えていることをためらわずに話してくれた。彼女がくり返し述べていた願望は「普通の人々の中で暮らしたい」と言うことであった。「よく成熟した、普通の、興味深い人柄」であった。


*著者注記:これは、明らかな自閉症ではないが、明らかに「生まれた時から静かだった」子どもの一例である。開業医の父親によれば、この「自己流治療法」の大部分は彼の妻のやったことであり、彼女はポーラとのつながりをつけることを決して諦めず、彼女の奇妙な行動にさえ一緒につきあったり、音楽好きをうまく生かし、ポーラが自発的にするように誘ったりした。両親はつねに「彼女のあるがまま」を受け入れ、耐え抜き、子どもの知的情緒的発達を促す道を求め続けてきた。典型的な自己流ママの例である。


《感想》
 この事例の最重要ポイントは、著者が「注記」しているように、両親(とりわけ母親)の「つながりをつけることを決して諦め」ない(育児)態度(持久力)であることはいうまでもないが、さらに加えて、2歳5か月、2歳8か月、3歳5か月に「大病を患った」ことが、自閉的状態からの回復に大きく影響している、と私は思う。ポーラは、生後6週目に3週間「単独入院」した。その結果が、自閉的な逸脱(の進行)に影響していることは間違いないだろう。しかし、2歳5か月、重症の風疹にかかったが「家ですごした」のである。その時の、母親の看病・介護が、母子のやりとりを促進し、「本物のつながり」をつくり始めた。次いで、2歳8か月の「悪性の」はしかと肺炎で、ポーラの不安は高まり、よりいっそう母親を求める気持ちが強まったに違いない。究極は、3歳5か月の「肺炎」、彼女はおそらくまた0歳台まで「退行」したのではないだろうか。両親は「必死でした。家族全員が苦しみました。精神科にかかろうかとも思いました」というところまで落ち込んだが、その必死な看病・介護こそが、ポーラを自閉的逸脱から救い出す契機になったのではないだろうか。大好きなピアノを与えられて元気になった時、体力の回復と同時に、情緒面でもいちだんと回復し、母子の絆が再構築されるという「上向きのらせん」が始まったのではないだろうか。まさに、「災い転じて福と為す」事例ではなかったか。(2013.12.9)