梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル・みすず書房・1956年)

  久しぶりに、ということはおよそ40年ぶりに「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル,
霜山徳爾訳・みすず書房・1956年)という本を読んだ。〈ドイツ強制収容所の体験記録〉という副題がついている。なぜ読んだのか・・・。たしか、この本の著者は心理学者ではなかったか。そして「人間の生活にとってニコチンとアルコールは不可欠である」というような見解を示していなかったか。そのことを確かめたくて読み始めたが、なかなかその言辞に当たらない。結果として全文を読み通してしまった次第である。それにしても、この体験記録は貴重である。「出版者の序」には、〈これ(1940年より1945年に至るナチズム哲学の具体的表現ともいうべき強制収容所の組織的集団的虐殺)は、原始的衝動とか一時性の興奮によるものではなく、むしろ冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画がナチズムの国家権力の手足となって、その悪魔的な非人間性をいかんなく発揮した。「近代的なマスプロ工業が、人間を垂直に歩く動物から1キログラムの灰にしてしまう事業に動員された。」(スノー)アウシュビッツ収容所だけで、300万人の人命が絶たれ、総計すれば800万乃至1200万人に達するといわれる。これは実に日本人口の約10分の1ないし7分の1に該当する数字である〉と書かれている。〈いまだ人類の歴史において、かくの如き悪の組織化は存在しなかった〉とも述べられている。したがって、その体験者が「生還」して記録を書くということは「奇跡」に近く、文字通り「神業」としか思えない。もし、その中に「ニコチンとアルコールは不可欠である」といった著者の思いが含まれているとすれば、その見解もまた「神の声」として尊重されなければならないのではないか。さて、結果はどうであったか。著者は収容所の人々を冷静に観察、家族、財産、持ち物すべて剥奪され、自分の名前すら失った(数字番号化)人々が、最後の最後「生きる目的」を見失ったとき「確実に死ぬ」という実態を、見事に描出している。また、そうであっても、人々は「集団」でいる限り「生きる目的」を追求できる、といった可能性を忘れてはいない。さればこそ、著者は最愛の家族を殺されても、人々のために生き抜くことができたのであろう。強制収容所での体験を記録し終えた後、著者は以下のように述べている。〈以上が収容所にいる間に囚人を打ち負かし、彼の精神生活を一般により原始的な水準に低下せしめ、彼を運命の意志なき対象にするか、あるいは看視兵の恣意に委せ、ついには運命を自ら手にすること、決断することを恐れさせるようにする無感動、心情の鈍麻についての描写である。無感動はまた他の原因を持っていた。すなわち記述の如き心の自己防御の機制の意味において理解され得るばかりでなく、また身体的な原因も持っていた。また(無感動と共に)囚人の心の著しい特徴の一つであるいらいらしやすいことも同様に身体的原因を持っていた。身体的にそれをひき起こす一連の原因の中で最も主なるものは飢餓と睡眠不足であった。すでに正常な生活においても両者は周知のごとく人間を無感動にかついらいらさせるものである。収容所においては睡眠不足は(バラックで想像に絶するほどくっついて寝ることと、考えられない程の不衛生とによって生じた)虱の苦しみが強かったことにも一部は帰せられるであろう。しかしこのようにして生じる無感動といらいらしやすいことにはなお別な理由がつけ加わっていた。すなわち通常は感情の鈍麻や刺激性を緩和する役目を果たす嗜好品、ニコチンとカフェインの欠如であった。かくして無感動といらいらすることは一層上昇し、またこの身体的な原因に収容所の囚人の独特な心理、一種のコンプレックスがつけ加わったのである〉。なるほど、ここ(第六章「運命と死のたわむれ」・162頁)にいたって、ようやく私は(懸案であった)ニコチン(とアルコールではなくカフェインであったか!)に関する記述に巡り会うことができたのだった。今や現代において「禁煙」(禁ニコチン)は社会の常識、人によっては「禁煙ファシズム」と呼んでいるほどだが、はたして「感情の鈍麻や刺激性の緩和」は強制収容所ほどには必要とされていないのだろうか。鋭すぎる感情、強すぎる刺激性が、「現代人」を無感動に、かついらいらさせることはないか。現代社会(日本社会)に、アウシュビッツのような「飢餓」「睡眠不足」はない。「ガス室」もない。にもかかわらず、「生きる目的」を見失って「死に急ぐ人」は減らないのは何故か。「無感動」「いらいら」が「一層上昇」しているのは何故か。まさか、ニコチンとカフェインの欠如が原因だとは思えないのだが・・・。(2010.3.10)