梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

旅日記・壱岐・《「魏志」倭人伝の島》

2010年11月24日(水) 晴                                                             「よくばり!五島列島と壱岐・対馬の旅4日間」の二番目は壱岐。対馬とは対照的で、面積は小さく、ほぼ平坦な地形である。壱岐市立一支国博物館の案内には、〈中国の歴史書『三国志』の「魏志」倭人伝には邪馬台国をはじめ、様々な国の様子が記されています。記された国の中で、国の場所と王都の位置の両方が特定されるのは国内では唯一「壱岐・原の辻遺跡」だけです。57文字で壱岐に関する情報が記されており、立地的に豊かな自然に恵まれていること、多くの人が壱岐で生活していたこと、海を舞台に積極的に交流していたことについて書いてあります。遺跡からは東アジア最古の船着き場跡や大陸との交流を物語る遺物が多数発見されています。玄界灘に浮かぶ壱岐は大陸や朝鮮半島と日本を結ぶ架け橋として重要な役割を果たしていたことがわかる遺跡として、遺物でいうと「国宝」にあたる「国の特別遺跡」に指定された日本を代表する遺跡のひとつです〉と記されていた。博物館1階には〈弥生時代の一支国の姿をシンボリックに7つのシーンで再現。一支国の様々なくらしのシーンをジオラマミニチュア模型で展開〉されているコーナーがあった。そこに登場する人形の顔は、現存する島民をモデルにしたそうだが、なるほど、どの人々も生き生きとした表情で、往時の暮らしを肌で感じ取ることができた。弥生時代は日本文化の原点、まだ大陸や朝鮮半島との「架け橋」として「穏やかな」生活が繰り広げられていたのだろうか。以来、二千余年、「玄界灘」は大陸進出の血なまぐさい起点となり果てた。あの有名な反戦歌「戦友」でも以下のように詠われている。「思えば去年船出して 御国が見えずなった時 玄界灘で手を握り 名を名のったが初めにて」(作詞・眞下飛泉)今は昔、対馬も壱岐も玄界灘も「軍国日本」の面影一つ感じさせない風情とはいえ、青天の霹靂、国境で事あれば、たちまち愚かな悲劇が再現されることは間違いない、などと愚考しながら、「左京鼻」「はらほげ地蔵」「月読神社」「猿岩」「砲台跡」などの名勝・旧跡を巡り歩いた次第である。(2010.11.24)