梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・35

2 文章における作者の立場の移行
 文章の理論的研究は、これまで主として修辞学の中で行われてきたようである。文章に中に文の法則性を超えた独自の法則性をさぐって体系的な文章論をうちたてるという試みはほとんど行われていない。文法学と修辞学が、文章について全くちがった何の関係もない定義を与えていると云うことは、《それぞれの理論に大きな欠陥がある》ということを暗示している。
 時枝氏は、文章の研究を文法学の正面の問題にすえなければならないと力説した。文章の構成上の特徴を表現の展開という点に求め、文に対して「文章研究の主題は、もっと流動的な思考の展開というようなところに置かなければならない」(時枝誠記・「日本文法・口語篇」)と主張した。これは正当である。では文の中に流動的な思考の展開はないのだろうか。決してそうではない。第三章の助動詞の説明で見たとおり、たとえ対象は運動しなくても、話し手の立場そのものは次々と移って行く。対象の運動を追って移って行きながら表現をくりひろげていく。これらが文章においてはさらに発展して、全体の大きな流動となってあらわれてくるのである。
 波多野完治氏は、久米正雄氏の文章を心理学的に分析した。
● 小説「青眉」(久米正雄)の一節
 「・・・停車場へ着くと共に、彼女は半睡状態から覚めた。そして四辺を見廻して、電車を降りた。昇降客は割に少なかった上に、待合客もそう居なかった。歩廊の明るい電燈の上には夜更めいた闇が、しんと迫って居た。乏しい人の足音だけが、陸橋を渡る音が、厭にガランと響いた。」
 この文章の「四辺を見廻して、電車を降りた」という所までは「冴子の行動であって、これは普通の叙事(ナレーション)であり、別にとりたてて言うことはない」(波多野完治・「文章心理学」)と見る。しかし、それにつづく「昇降客は・・・」のくだりからはそうではない。「この文章は、外見的には、作者が東中野の駅の様子を描写しているように見える。しかし実はそうではないのである」(同)と波多野氏は指摘する。これはこの中に登場する冴子の見た世界であって、作者は登場者に代わって書いてやっているのである。「厭にガランと」いう表現が、そのことを示している。こんな響きかたとして聞くのは冴子である。ここでは《あくまで冴子の心にうつった世界として書かれている》というのが波多野氏の主張である。
 事件は、はじめ第三者の立場で描写され、途中で作者は登場人物の立場に移って行って、見たり聞いたりする。このような表現の構造は、映画でも見ることができる。 
《例》「戦火のかなた」(イタリア映画) 「アフリカの女王」(イギリス映画)
 波多野氏は、客観的な世界と、冴子の目にうつったものとの間にはっきり区別をつけ、前者を「地理的環境」、後者を「行動的環境」と名づけた。
 ここで問題になっているのは、作者が想像の世界の中で観念的に二重化して、他人の立場に移って行くということである。この二重化した作者は、冴子の傍観者として客観的にその行動をながめる立場に立つこともあり、さらに進んで冴子自身の立場に立つこともある。
 《文の中で、語と語との間に話し手の移りゆきがあり、句と句との間にもあり、また進んで文と文との間でも行われる》。


【感想】
 ここでは「文章における作者の立場の移行」について述べられている。小説などの文章表現において、作者の立場が、客観的な叙事(ナレーション)から始まり、次々に登場人物の立場に移って行き、その人物の視点で表象、心象等が描出されるということである。 この方法は映画でも取り入れられており、初めは遠景、次に人物、さらにその人物の視線、その先にある対象物へと映像が展開する。要するに「作者が想像の世界の中で観念的に二重化して、他人の立場に移って行くということ」であり、《文の中で、語と語との間に話し手の移りゆきがあり、句と句との間にもあり、また進んで文と文との間でも行われる》という説明はよく理解できた。(2018.2.24)