梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・33

3 感動詞・応答詞・接続詞
【要約】
(a) (おい)、君。
(b) (ああ)、うまかった。
(c) (ちぇっ)、ばかにしている。
 独立したかたちで使われる、話し手の呼びかけや感情を表現する語を、感動詞あるいは感嘆詞と名づける。この感動詞によって直接表現されている呼びかけや感情にはそれをひきおこした対象が存在しているが、それは表面に出てこない。もしその対象である友人(a)、食事(b)、相手の態度(c)を表現する必要があれば、あらためて一つの文として、「君」とか「うまかった」とか表現する習慣になっている。感動詞は一つの文でもあり、それにつづく文との間は句点あるいはコンマをつけて区別するのが普通である。
 「キャーッ」という悲鳴、「ハーッ」という溜息などは、声による表現というだけで、表現上の社会的な約束に基づくものではない。これらは感動詞のうちには入らない。はじめは単なる感動の表現にすぎなかったものが、《自然成長的に社会的な約束に基づく表現となって》、現在の感動詞がうまれたと考えられる。
(d) (ね)、(ね)、お母さん、あれ買って(ね)。
 感動詞は、感動や欲求を表現する終助詞と密接な関係がある。感動詞の場合の「ね」は一つの文だが、終助詞としてのかたちをとった場合は一つの語として、感動詞の場合は表現されなかった内容を「あれ買って」と表現したあとでそれにつけ加えるのである。
(e) (ふん)。
(f) (ああ)、そう。
(g) (ええ)、いいです。
(h) (いいえ)、ちがいます。
 相手の言葉に応答する応答詞は、普通、感動詞の中に入れている。(b)と(f)とを比べると、かたちは似ているが、この二つは区別しなければならない。(b)の対象は単なる事物だが、(f)の対象は相手の言葉である。(g)も(h)も、相手の言葉を理解した上で肯定したり、否定したりしている。言葉を理解するということは、話し手の立場に立って追体験することだから、(f)(g)(h)の話し手は、はじめ聞き手として相手の立場に立ち、次に話し手に移行してそれまでの立場(相手の立場)を了解したとか肯定したとか否定したとか表現するのである。
(i) 《「■」うん》(■)
(j) 《「■」■》(いや)
(k) 《「■」うん》(にゃ)
(l) 《「■」あら》(ず)
応答詞では、話し手はいつも相手の立場を理解しようと努力しており、相手の立場に立っているのだから、《表現に先立ってその立場は二重化している》。肯定のときは、二重化した相手の立場において肯定し(i)、否定のときは、相手とちがった立場に移って行って否定する(j)。同じ一語文でもその表現構造はちがうのである。俗語では、否定の場合に肯定をつけ加えて表現するかたち(k)が現在なお残っているが、これは普通文の「あらず」を応答詞に転用する場合(l)とを比較して考えてみれば納得できるだろう。
(m) 注文の品を買ってきました。
(n) ああ、そう。そこへ置いてください。
 (m)(n)は、二つの別々な文をよせあつめたものではなく、内面的につながっているのである。
(o) ぼくは困っているんだ。
(p) (だ)からいわないことじゃない。
 (p)の話し手は、はじめ聞き手として(o)の立場に立っていた。その立場から自分の話をはじめたのである。(o)の立場の「だ」をひきとってその立場を「だ」で表現することから自分の話を展開したのである。このように、助動詞は(p)にあっては接続詞に転用されている。
(q) 今持ち合わせがないん(だ)。(だが)何とか都合しよう。
 これは一人称の話し手が。一つの文の立場をひきとって次の文を展開する例である。「だが」を接続詞とよぶ。
 接続詞には、はじめから独自のものとして生まれた語もあれば、助動詞、助詞、代名詞などの複合語から転化して生まれた語もある。一人の話し手が文の接続に使う語もあり、対話で使う語もあり、文節のかわり目に、前の文節とのつながりを表現するものとして使う語もある。
《一人の話し手が使うもの》
・したがって、しかるに、すると、すなわち、そこで、そして、そのうえ、それゆえ、それで、それに、だが、だから、だけど、で、ところが、ゆえに、等
《対話で使うもの》
・しかし、それで、それなら、だったら、だから、だけど、では、でしたら、等
《文節のかわり目に使うもの》
・さて、したがって、つぎに、ところで、等
 これらの中には、まだ複合語であって接続詞になりきっていないと思われるものもあるが、いずれも主体的表現を主にして前の文とのつながりを強く示すところに特徴があり、その意味で特殊のものと考えられてよいと思う。
【感想】  
 「独立したかたちで使われる、話し手の呼びかけ(や応答)や感情を表現する語」を感動詞(あるいは感嘆詞)という。これらの語は一見すると「単純」であり、複雑な活用もないので、「文法学習」では軽視されがちだが、著者の言うように、「もともと声による感動の表現が《自然成長的に社会的な約束に基づく表現となって》うまれた語だとすれば、「言語発達」という観点から見て、きわめて重要な語群だと、私は思う。著者は「キャーッ」という驚きの声や「ハーッ」という溜息は、声の表現であり感動詞ではないと述べているが、乳児の「オギャー、オギャー」、幼児の「アーン、エーン」といった泣き声が、「アーウー、オックン・・・」といった喃語になり、それが感情を表現する語に成長していくとすれば、「感動詞」の源泉は「声による感情の表現」だということになる。「言語発達」を促すためには、まず発声量を増やし「声で気持ちのやりとりをすること」が先決であると、私は思った。
 著者は「ああ、うまかった」と「ああ、そう」の「ああ」は区別しなければならない、と述べている。前者の対象は食事だが、後者の対象は「相手の言葉」であり、聞き手は一度、相手(話し手)の立場に立って(相手の言葉を)理解してから、自分の立場に立って「ああ、そう」と肯定している。ここでも《表現に先立ってその立場は二重化している》。ということが強調されている。 
(i) 《「■」うん》(■)
(j) 《「■」■》(いや)
(k) 《「■」うん》(にゃ)
(l) 《「■」あら》(ず)
 という図の■の部分が、相手の立場に立つことを示しており、文字の部分が自分の立場で肯定、否定を表現しているということがわかったような気がする。
 また、「ぼくは困っているんだ。(だ)から、いわないこっちゃない」という文を例示して、助動詞「だ」が「だから」という接続詞に転用される過程を説明している。接続詞は感動詞と比べて、「論理的」であり、話し手の思考の表現に他ならないと、私は思った。(2018.2.22)